ただ、想い続けるだけなら。

2/21
1603人が本棚に入れています
本棚に追加
/59ページ
「要」 「はい」 「ちょっと、応接室まで来て」  季節は夏が終わり、秋の訪れまでもう間もなくという九月を迎える午後に、要は上司の浜村に呼ばれた。  なんで呼ばれたのかは、わかっていた。自分が先週提出した退職届の件だろう。  あれから仕事はうまくいっていた。  会社の人間とは良い関係も築けていたし、以前のように自分は会社員が向いていないのではないか、とも思わなくなった。すべてが順風満帆で、会社のために働けることは喜びだし、当然浜村の元で働くことにも不満はなかった。  けれど、要はある決意を胸に秘めていた。  お盆休暇に、兄と実家に帰ったその道中、初めて自分の気持ちを兄だけに伝えた。 『兄ちゃん、俺会社やめようかと思って』 『なんで?』  すぐに返され、要は答えることができなかった。そのとき、もし理由を告げたら、兄に不純な動機と罵られるかもしれないと思ったからだ。  しばらくの沈黙のあと、兄は軽く返事をした。 『いいんじゃね』 『え?理由、聞かないの?』 『おまえは俺より頭いいから、きっと俺よりも先のこと考えてるだろうしな』  けらけらと笑う兄に、"実はそうでもないんだけど"と要は心の中で苦笑するしかなかった。  今までの自分ならこんな結論出さなかっただろう。冷静によく考えればわかることだ。会社に不満がないのに辞めるのは得策ではないと。  両親に会社をやめるかもしれない旨を報告すると、九州に戻ってくるの?と母親は嬉しそうな顔をした。そのとき要はまだあっちでやりたいことあるらしいとフォローしてくれたのは兄だった。  おそらく兄はこっちに戻ってきてから、浜村に伝えてくれたのだろう。自分が退職の意思を伝えたときも、浜村は特に驚かなかった。なんて言ってくれたのかまでは知らないが、何から何まで兄には迷惑をかけっぱなしだ。 「退職日は九月三十日でどうだ?本当は決算処理、手伝って欲しかったなぁってのが本音だけど」 「すみません」 「いいって。引き止めても無駄なんだろ?」  浜村は切なそうに笑った。 「まだ、みんなには言ってないけど、きっと寂しがるだろうな」 「短い間でしたが、お世話になりました」  座ったまま、要は深く頭を下げた。 「このあと、どうするんだ?なんて質問は野暮なのかな」 「……いえ」 「純太郎さんとこにいくんだろ」  その名前にぴくりと体がこわばる。
/59ページ

最初のコメントを投稿しよう!