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「要」
「はい」
「ちょっと、応接室まで来て」
季節は夏が終わり、秋の訪れまでもう間もなくという九月を迎える午後に、要は上司の浜村に呼ばれた。
なんで呼ばれたのかは、わかっていた。自分が先週提出した退職届の件だろう。
あれから仕事はうまくいっていた。
会社の人間とは良い関係も築けていたし、以前のように自分は会社員が向いていないのではないか、とも思わなくなった。すべてが順風満帆で、会社のために働けることは喜びだし、当然浜村の元で働くことにも不満はなかった。
けれど、要はある決意を胸に秘めていた。
お盆休暇に、兄と実家に帰ったその道中、初めて自分の気持ちを兄だけに伝えた。
『兄ちゃん、俺会社やめようかと思って』
『なんで?』
すぐに返され、要は答えることができなかった。そのとき、もし理由を告げたら、兄に不純な動機と罵られるかもしれないと思ったからだ。
しばらくの沈黙のあと、兄は軽く返事をした。
『いいんじゃね』
『え?理由、聞かないの?』
『おまえは俺より頭いいから、きっと俺よりも先のこと考えてるだろうしな』
けらけらと笑う兄に、"実はそうでもないんだけど"と要は心の中で苦笑するしかなかった。
今までの自分ならこんな結論出さなかっただろう。冷静によく考えればわかることだ。会社に不満がないのに辞めるのは得策ではないと。
両親に会社をやめるかもしれない旨を報告すると、九州に戻ってくるの?と母親は嬉しそうな顔をした。そのとき要はまだあっちでやりたいことあるらしいとフォローしてくれたのは兄だった。
おそらく兄はこっちに戻ってきてから、浜村に伝えてくれたのだろう。自分が退職の意思を伝えたときも、浜村は特に驚かなかった。なんて言ってくれたのかまでは知らないが、何から何まで兄には迷惑をかけっぱなしだ。
「退職日は九月三十日でどうだ?本当は決算処理、手伝って欲しかったなぁってのが本音だけど」
「すみません」
「いいって。引き止めても無駄なんだろ?」
浜村は切なそうに笑った。
「まだ、みんなには言ってないけど、きっと寂しがるだろうな」
「短い間でしたが、お世話になりました」
座ったまま、要は深く頭を下げた。
「このあと、どうするんだ?なんて質問は野暮なのかな」
「……いえ」
「純太郎さんとこにいくんだろ」
その名前にぴくりと体がこわばる。
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