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「自身の中の鬼を忘れるな」
そう言い残して、力は座敷を出ていった。さわさわと葉をゆらす風が、ゆるやかに座敷の中を流れていった。
*****
「今日は92点……塾のテストよりは良いけど、まだ前回より低いわね」
忠司は不満そうな顔をしたが、黙って聞いていた。いいんだ、父さんに褒めてもらうから。
あの日、重い瞼を開けると、病院のベッドの上にいた。何でも、人目につかないビルの隙間で倒れていたんだとか。
近くのビルの屋上で塾の鞄が見つかって詳細を聞かれたが、フェンスの上から飛び降りたところまでしか覚えていない。何があって飛び降りた位置とは外れたビルの隙間に倒れていたのか、思い出せなかった。
屋上から飛び降りたにしては、奇跡的に無傷だった。父は病院のベッドにすがり付いて、「ごめん、ごめん」と謝ってくれた。忠司は、やっとわかってくれる人ができたんだと、涙を流した。
母は、相変わらずだ。父の不倫疑惑は晴れたけど、前にも増して強く当たるようになった。
忠司は塾の鞄を持ち、外に出る。もう空は暗く、街灯がついていた。
家がある住宅街を抜けて、塾があるビルの手前の交差点で立ち止まる。信号は赤。ふっと、あの日のゲームセンターが目に入った。
――あれ、僕、何かを忘れている気がするな。
そんな違和感が胸を掠める。しかし、思い出せない。
信号が青になり、忠司は歩き出した。なんだろう、なんだろうと考えていると、前方の人混みから、一人の少女が現れた。
彼女は地元の高校の制服を着ている。腰にはこのビル街に似つかわしくない刀を携えて、俯き加減ながらも堂々と歩いてくる。そしてゆっくりと顔を上げる彼女。パーマなのか、癖っ毛なのかわからない落ち着かない髪が、ふわりと風に揺れた。
忠司は、何故か目が離せなかった。彼女を、初めて見た気がしなかった。
交差点の真ん中ですれ違う。すぐに忠司は振り返った。しかし、彼女が人混みに埋もれていくのが見えただけだった。
「…………………」
ふーっと息を吐き出し、地元の高校の制服だし、そんなこともあるかと思い直し、再び塾を目指した。彼女の凛々しい目はとても惹き付けられるから、思わず見てしまっただけなんだ。
ただ、こんな街中で刀を持ち歩くとは、変な人なのは否めない。彼女は、どこへ向かっていたのだろう。
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