第1章

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「八時に『きぬや』が仕立て直した振り袖を届けに来ます。その時にはちゃんと新しいストッキングに履き替えておくんですよ」  閉まったと思っていた磨りガラスの戸が再び開けられ、龍太郎が顔を出した。   「ゴミはゴミ箱へ、ちゃんと手で持っていって捨てなさい。座ったまま、投げない!」 「うるさいっ! さっさと行けーッ!!」  都心へ向かって借り物のマセラティを走らせながら、龍太郎はひどく重苦しいため息をついた。  ハンドルを握る手に、今もまだあの小さな軽い足の感触が残っている。    ――いくらなんでも、無防備すぎるだろう、あれは……!  膝上の短いスカートを履いて、素足を男の手に乗せて、何の警戒心も持たないとは。    いや、明日香が怪我をした時は、最初の手当てをするのは龍太郎の仕事だった。ずっと以前からそれは変わらない。  だから明日香も、何の迷いもなくその足を龍太郎に預けたのだろう。    迷いがあるのは――俺のほうだ。    小さな足。つんと尖ったその指先まで誇り高く、まるでつくりもののように華奢だった。  この手に握ると少しひやりと冷たく、しかししばらく包み込んでいると、やがてほんのりとあたたかくなってきた。    龍太郎の力なら容易く握りつぶしてしまえそうなくらい、細い足首。  日々の労働や、あるいはもっと酷いものから走って逃げ回る恐怖を知らない、けれどほかの人間には想像もできない「政治家一族の令嬢」という重圧に耐え、その誇りを支えている、けなげな足。    そう言えば、マセラティに乗った時、鼻の頭が少し赤かった。  またなにか嫌なことでもあって、涙をこらえていたのだろうか。    明日香が人前で涙を見せたのは、柴 鴻一代議士の葬儀の席でが最後だ。あ  れ以来、明日香はどんなにつらいことや悔しいことがあっても、けしてその屈辱を顔に出したりはしない。いつも凛と居住まいを正し、他者からの侮りを許さない。    ――俺が、そう言ったから。    柴 鴻一の疑獄事件に巻き込まれ、ハイエナのようなマスコミどもにしつこく追い回されていた時。  逃げてはいけません。つねに誇り高いお嬢さまであってください。    龍太郎の言葉どおり、明日香は怖れることなく顔をあげた。
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