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「春が近付いている証拠だね」
直ぐ傍で那月の声が聞こえた。
けれど俺は返事をしなかった。
返事も忘れて、食い入るように桜の樹を見つめていた。
無数の桜の花に彩られた幾つもの枝先、その亀裂から覗き込む青空との組み合わせは、塞ぎ込んで衰弱した目蓋に鮮やかに映えた。
「きれい」
そよ風に吹かれて揺らめく花びらと、さわさわと鳴る心地良い環境音。
それらに囲まれる中、俺は頭上を見上げたままぽつりと言葉を零した。
無意識の内に声になっていた、唇から独りでに溢れた感情だった。
「うん、綺麗だね」
「……そうか」
「ん?」
「知らなかった」
「なにを?」
優しげに相槌を打ち、那月は俺に訊ねかける。
その小さな子供に問うような柔らかな声色に、俺はやはり桜を見上げながら答えた。
「もう、春になるんだな」
ーーカレンダーはいつも眺めていた。
3月がどういう時期なのかも知っていた。
だけど俺は何も知らなかった。
寒さに囚われ、景色の変化に見向きもしていなかった。
殺風景だった樹々がこうして葉を飾り、花で彩られていたなんて、気付きもしなかった。
鉄と電気に塗り固められた都会の片隅でも、何の変哲もないこんな公園でも、こんな風に胸に焼き付くような景色を見られるなんて知らなかった。
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