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もし那月が、この散歩に俺を誘ってくれなかったら。
ベランダの手摺りに身を乗り上げた俺を、引き戻してくれていなかったら。
きっと俺は、彼の優しさも温もりも思い出せなくなって、忘れてしまっていたのかもしれない。
彼と過ごして見つけた、自分の姿さえも。
ーー…あぁ、そうだった。
この人だった。
錆びた雨を吸い込んで、野晒しになっていた俺に傘を差し出してくれた。
軋んで傷んでいたこの身体を拾い上げ、安心して眠れる場所を与えてくれた。
膿を洗い流して、傷口に薬を塗って蓋をしてくれた。
知らないものが多過ぎる俺の歩幅に合わせて、今日まで一緒に歩いて来てくれた人だった。
一本の真っ直ぐな道しか知らなかった俺に、沢山の寄り道を教えてくれた人だった。
俺が間違えそうになったときも背中を向けようとしたときも、この人はいつも向き合っていた。
…この人が俺から目を逸らしたときなんて、一度もなかったじゃないか……。
「兄さん」
不意に、優しく呼びかける声が聞こえた。
「僕は兄さんの味方だよ」
笑いかけてくれているのが、声だけで分かる。
「兄さんはちゃんと幸せになれるよ。絶対になれるから」
そうしていつも俺を宥めて、安心させてくれていた。
「あなたが思うほど、外の世界も周りの人も怖くはないから」
彼はいつも与えてくれていた。
色も音も、温もりも。
「だから、大丈夫だよ」
那月は、いつも。
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