第1話 無敵の梓

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 「鈴木議員のおっしゃることはもっともだと思います。私の間違いを指摘していただいて、素直に感謝申し上げます」  テレビの中で総理大臣がそう答弁するのを聞いて、父が妙に感心している。  「今の総理はささいなことでも言われたら言い返すというタイプだったのに、最近ずいぶん丸くなったな」  人は変わる。それは子供だろうが大人だろうが変わらない。何かのきっかけで人間ががらっと変わることがあるのだ。  そう思い込んでいた。そう。おれを乗っ取ろうとするあいつが現れるまでは――  「また明日な」  長内梓は「うん」と返して、おれたちは手を振って別れた。いつものことだが、ほかの連中より「うん」のタイミングが一拍遅い。しかも蚊の鳴くような小さな声。  でも、梓は心が弱いだけで、実は無敵の空手家だ。彼女の家が空手道場で、幼い頃から厳しい父親からしごかれてきた。  そのせいで、空手は誰より強くなったが、性格は卑屈になってしまった。中学一年のとき強豪の上級生たちを蹴散らして県大会三位になった。  でも、目立つのが怖いと言って、それからまったく試合に出なくなった。試合に出ろと父親に無理やり脅されたとき、おれの家に逃げてきて、一日匿ってやったこともある。  幼なじみのおれたちは今年同じ高校に進学して、運よく同じクラスになった。うちの高校に空手部はないし、クラスメイトで梓の空手の実力を知る者はおれ以外にない。  おれは空手に限らず誰かと素手で戦うこと自体が嫌いだ。小学校に上がる前、誰かに殴られて一晩生死の境目をさまよった。それ以来口ゲンカ以上のケンカを一度もしたことがない。でも、そんなヘタレなおれを梓は馬鹿にしないでくれる。それだけで十分だった。  おれは梓のことが好きだ。でも、告白はしない。拒絶されて今の関係が壊れてしまうのが嫌だからだ。きっといつか告白するときが来る。それがいつかは分からないが、そのときが来るのをあせらずに待っている。
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