恋を知らないまま

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グラッと脚立が揺れたと思った時には、もう天井が見えていた。 「きゃああああ!」 思わず口から出た悲鳴と脚立の倒れる音が、真昼間の社宅にやけに響いた。 背中をしたたかに打ち付けながらも、外した蛍光灯を割らないように抱きしめていた自分を褒めてあげたい。 バンッと凄い勢いで開いたドアから、中津川課長の奥さんが顔を出した。 「ちょっと、田中さん! 静かにして。”お昼寝中”って見えるでしょ?」 彼女は声を潜めながらも強い語気で、ドアノブにかかったプレートを指さした。 ”赤ちゃんがお昼寝しています 静かにして下さい” 大きな枕にスヤスヤ眠る赤ちゃんの絵。ズキンと胸が痛んだ。 「すみません。この脚立、グラグラして」 言い訳の途中でバタンとドアを閉められてしまって、俯いたらまた赤ちゃんの絵が目に入ってしまった。 気にしない。気にしない。 心の中でおまじないを唱える。 うるさくしたのは事実なんだから、私が100%悪い。 閉じたドアに向かってお辞儀をすると、私は脚立を畳んで階段を降りて行った。 これは社宅の”幹事”の仕事だ。 ”幹事”とは管理人みたいなもので、毎年持ち回りで入居者の誰かが務めることになっている。 今年は夫の田中 裕也(ゆうや)の番だ。 今日のように階段の蛍光灯が切れたら、倉庫から脚立を出して新しいものと交換する。 市の広報紙を町内会の担当者の家まで取りに行って、社宅の郵便受けに配る。 年に2回の敷地内清掃を企画・準備してお知らせし、当日も軍手やごみ袋やお茶を配って取り仕切る。 退去者が出た場合は、立ち会って部屋の状態をチェックし、会社に提出する報告書を書く。入居者が来たら、鍵を渡して社宅のルールを説明する。 そういったすべての仕事を夫に成り代わって、私が務めている。それが妻たるものの役目だから。
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