文鳥と隣人

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正宗と初めて出会った日の夜を思い出す。 ノーメイクの顔を隠すようにそそくさとドアを閉めた自分を思い出し赤面する。 イケメンでカフェオーナー。 絶対自分には釣り合わない人種だ。 朱美は元カレに振られた時よりも強い敗北感を紛らわせるように手元に置かれたアイスコーヒーをスプーンでかき混ぜる。 琥珀色の液体は不揃いな氷にところどころ色を奪われながら、不協和音を奏でた。 「あの、こんな暑い日に、外でアイスコーヒーって辛くないですか?」 「ああ、あの、私不動産屋の営業なんです、今日は不発で。涼んでから事務所に帰ってもよかったんですけど、あまり汗かいてないと罪悪感があるというか……」 「へえ、堺さんって、真面目なんですね」 「そうですか、ありがとうございます」 「では、ごゆっくり」 正宗が去っていくと、朱美を包む空気は一瞬で重苦しく暑い夏の空気に戻った。 見た目がいい人間は、周りの空気を変化させる力を持っているようだ。 「はあ……」 日よけがあるので日陰ではあったが、テラスに置かれたアイスコーヒーはすぐにぬるくなった。 朱美は急いでクロワッサンをほおばり、会計を済ませて足早に事務所に向かった。 その日は、いつまでもポットマムの看板と、正宗の笑顔が残像として残ったせいで、一件の契約もアポも取れずじまいだった。 それからと言うもの朱美は、仕事がうまくいかない日のランチは、導かれるようにポットマムに足を運ぶようになった。 オーナーの正宗とは、マンションで出くわす時より自然に言葉を交わすことができる。 恋人になってやろうなどと図々しい気持ちはない。
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