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「凄い、繁盛してますね」
「嬉しい悲鳴といいますか……お出しするのが遅くなって申し訳ありません」
会釈をして、マスターがオードブルを差し出す。ダイニングバーの店内は満席で、アップテンポなジャズが、会話の隙間に居場所を探すように流れていた。
「何かお飲みになりますか?」と続けたマスターに、カウンターの端に座る若い男は「じゃあマティーニをもう一杯」と空になったグラスを軽く振ってみせる。
「お強いんですね」
「いいえ、全然。こういう、バーに入ってみたのも実は初めてで」
想像していたより、賑やかでびっくりしました。周りを気にした様子の若い男に、マスターはかぶりを振った。
「うちは、お酒は拘って作っているつもりですが、雰囲気はこう、わいわいしてますから」
「ここは何年くらい前から?」
「十八年くらいになりますか」
最初はそれこそ、お洒落で静かなバーを目指していたんですけれど。照れ臭そうにして、マスターがカクテルの準備に取り掛かる。
次々と寄せられる注文を流れる動作でこなす背中は、何とも頼もしさを感じさせた。
「お待たせしました。お水も、宜しければどうぞ」
「ありがとうございます」
若い男にカクテルと水のグラスを差し出したマスターは、忙しさを感じさせない、けれど機敏な動作で戻っていく。
それからしばらくは騒がしい時間が流れていたが、街がまどろみ始めると、店内の客はまばらになっていった。
「なんだか職人さんって感じですね」
マスターの手が空いた頃を見計らって、隅っこでちびりちびりと飲んでいた若い男が声をかける。
「所作が身についているというか、背中で語っているというか」
「はは、ありがとうございます」
「マティーニなんですけど」
「はい」カウンター内を整えながら、マスターが答える。
「父が、好きだったんです」ぽつりと呟いた若い男は、空のグラスをくるりと傾けてみせた。暖色の照明がきらりと反射して、輪っかを作る。
「バーテンダーの真似事をする程度で、こんなにちゃんとした感じではなかったんですけど」
「なるほど、そうでしたか」
「僕が三歳の時、事故に遭って……まあ、今はもう、いないんですけど」
「そうでしたか」と小さく頷いたマスターに、この話には続きがあって、と若い男がグラスを見つめたまま言う。
「実は、父は生きているらしいんです」
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