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§ 早良万太郎
館の裏手に厠を見つけ、用を足してから来た道を戻る途中。障子戸で仕切られた部屋の前を通った時、そこから小さな明かりが漏れていることに気が付いた。障子に大きな人影が写っているのを見て、ぎょっとして立ち止まる。
(やはり屋敷の者がおったか。あるいは妖の類か・・・)
俺は腰の刀をいつでも抜けるように身構えつつ、腰を落として障子越しに声を掛ける。
「誰か」
返事は無い。
「拙者、武蔵守○○公の配下、早良万太郎と申す。此度の戦で本隊よりはぐれてしまい申した。
本陣へ戻る道すがら一宿一飯の儀にあずかりたいとこの屋敷にまかりこした次第・・・」
やはり返答はない。代わりに歌声が聞こえて来た。子供の、それも少女の声だ。わらべ歌のようだが、随分と古く感じる。
俺は障子の縁に手を掛け、一気に滑らせた。そこは六畳の小部屋であった。行灯の明かりの中で、赤い振袖の少女がお手玉をしている。
俺は言葉を失っていた。これ程の屋敷だ。食べ物もあった。だから誰かがいなくてはおかしい。娘がいるという事は、親もいる筈だ。
だが俺は何かに引っかかっていた。目の前の少女は何かが普通とは違う。
やがて違和感の正体に気が付いた。少女が纏う振袖には霞に桜や楓が贅沢に刺繍されているのだが、それらの花弁や紅葉が布地の中でひらひらと舞い、乱れ散っているのである。目の錯覚などではない。
「け・・化生の者か・・・」
慄きを隠すこともできず、刀を抜き放つ。少女は俺をちらりと見て、すっと立ち上がった。全く恐れもなく真っ直ぐに俺を見上げるこの小娘に、俺の方が怖気づいていた。
「おのれ・・・化け物!!」
その怯えを押し隠すように、怒声を浴びせて少女に刀を振り下ろす。途端に行灯の明かりも消え、周囲が闇に戻る。
背筋がぞわぞわとし始めていた。振り下ろした刀には何の手応えも無かった。目の前の少女は影も形も消え去っていた。幾度もの合戦で度胸を付けた筈の自分が、何故かように怯えているのだ・・
暫く呆然と佇んでいた俺は我に返ると、急ぎ仲間にこのことを伝えようと廊下を走った。 元いた部屋に辿り着き、襖をからっと開く。そこには──
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