『糸乱』

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全帝はガハッと逆流する胃液を吐き出して、壁にヒビを入れながら背中から衝突する。背中とそして後頭部を軽く強打して、眩暈と痺れのようなものが全身を駆け巡って、僅かに全帝を動けずにした。その間に、レイの糸が全帝の身体に巻きつき、壁に括りつける。 同時に全帝と入れ替わって隣にいるレイは、雷帝に向かって糸を張り巡らした。両の手足を左右に上から下から糸に巻きつけて固定する。立ったまま大の字で身動き取れない雷帝は、自分のことなのに、今どういう状況にいるのか、全く理解できていなかった。 たった一瞬、時間にすればコンマ数秒といえるほどの一瞬。 それだけの間に、大の大人二人も、ましてや帝の称号を持つ者が、まだ子供な、しかも女にやられてしまうなんて。 『紺』という人物は、帝と同等の力を持つ──だって? 誰だ、そんなことを言ったのは。 彼女の力は、そんな規定範囲内に収まる力ではない。目前の人間は、想像を遥かに超越した力を持ち、それに見合うだけの技術を持っている。誰かと、何かと、比べるなんて烏滸がましい。 これほどの力を持っていながら、誰の目にも映らず、そして誰の噂にも当てはまらなかったのは、彼女が誰にもその力を、たった一人『漆黒の元帥』のみにしか見せなかったからだ。 それだけではなく、彼女が敵視した者は何者であろうと生存していないのだ。だから彼女の力を誰もみたことがない上、姿すら主同様に見せないがために、ただの噂でしか判断できないといえる。 たった一人のためな力を振るい、たった一人のために生きる──それが彼女、通称『紺』。 自分の信念を揺るがす者は、どれほどの障害でどれほどの力量であれど許しはしない。彼女は感情と本能のままに行動する忠実なる獣。 これが、『紺』と呼称される少女の──いや、これが『黒の番犬』と噂されるだけの人物なのだ。
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