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しかし遼は、獣からの殺意を感じなかった。
「待って」
遼が腕を掴み声をかけると一瞬、優樹の緊張が解けた。
すると獣は咆吼をあげ、踵を返して藪の奧へと戻っていく。優樹の身体から力が抜け、遼は手を離した。
「どういうことだ?」
不思議そうに獣の消えて行った方向を見つめていた優樹は、遼に目を移した。
「わからない」
他に答えようもなかった。
「俺が一人で走っているとき、何かが付いてきている気がした。霧で見えなかったけど、後ろになったり、併走したりしているのを確かに感じたんだ。だから緒永さんに言われたここでバイクを停めたとき、その正体がわかるかと思って探していた。今の奴だったのかな?」
「……わからない」
困惑の表情で、遼も湖を見つめた。
エメラルド色の湖面が、緑がかった深い藍色に変化しつつある。霧が晴れたかわりに風が強くなり、湖に映し出された白樺の美しい新緑が波に散った。
まだ対岸が見えるほどの明るさはあり、改めて見渡せば緒永から聞いていたとおりの美しい景観だった。
「中島が、あるんだ」
湖の丁度中程に、小さな島がある。そこには鳥居と祠らしき物が見て取れた。
「二人とも、やっと見つけたよ。優樹も無事で良かった」
その声に遼が振り返ると、息を切らせた緒永が後ろに立っていた。
「すみません、優樹は直ぐに見付かったんですけど、戻る方向がわからなくなって」
「私も霧が晴れてからやっと、君達を見つけられたんだよ。ああ、湖の方はもうすっかり晴れて『秋月島』が見えるね」
「『秋月島』? あの祠のある小さな中島の事ですか?」
「うむ、この湖は『秋月湖』と言ってね、祠はここで悲運の死を遂げた戦国時代の姫君を祀ってあるらしい。詳しいことは良く知らないが」
「そうなんですか……」
遼は、あの獣が湖を護っていたように感じていた。『秋月島』、白い獣、深い霧、美しい湖。
「緒永さん、この辺には白い熊が出るんですか?」
敢えて言うまいと思った遼の気も知らず、優樹が緒永に聞いた。
「白い熊? この辺にいるのはツキノワグマで、動物園で見るようなシロクマ、ホッキョクグマなんかいるわけないだろう?」
「だけど……!」
呆れたように笑う緒永に「むっ」とした顔になって、なお言い募ろうとする優樹の肩を遼がひいた。
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