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「ただの噂にすぎませぬ。もし興味をお持ちならばお話ししますが、美那殿を恐がらせては……」
「ほう、それは面白そうだな。どうだ、美那。そなたも一緒に話を聞こうではないか」
「私、お酒を用意してまいります」
美那はみるみる蒼ざめると、逃げるように席を立った。
「ははは、あの様子では当分もどっては来ぬな。では聞かせてもらおうか。この噂、噂にあらず、なのであろう」
「……実はそのことについて、申し上げるべきか否か思い悩んでいる事がございますれば……」
「なんだ、申してみよ」
眉を曇らせ口ごもる義時を兼光は即す。
「その化け物、都では魄王丸と呼ばれ、その姿を目にした者はすべて恐ろしさのあまり石になると言われております。されど未だかつて姿を見た者はおらず、従って石と化した者もおりませぬ」
「では、ただの噂だと申すのか」
「大方、戦にて討ち死にし、打ち捨てられた雑兵の死体を野犬どもが食い荒らした後を見て、その余りの酷さに化け物の噂が立ったのに相違なく思われるのですが、ただ……」
義時がこの様に言葉を慎重に選ぶときは、決まっている。
「その事について、父上が何か申されたのだな」
「はい。度重なる戦で都は荒廃し、人々の心もすさんでおります。中には逆恨みから敵味方の区別なく一人になった兵を殴り殺す者まで現れる始末。そこでお館様はどうすれば我が方の兵がそのような不始末に遭わずに済むかお考えになり、化け物退治を家臣に御命じになったのでございます」
「ううむ、確かにその魄王丸とやらを仕留めたならば、人々の心はこちらに好意的になり都合も良い。しかし……ただの噂話とあっては、いい笑い者となりかねんな」
「噂の真意を確かめずに討伐を命じられるのは如何な物かと、父上共々御諌め申し上げたのですが……倉田殿が是非にと話しを勧められて」
「倉田が、か……」
倉田秀剛は柏原正義に次いで園部実光が信頼する家臣である。しかし兼光は幼き頃より倉田を信用できぬ者と嫌っていた。それは倉田の必要以上に媚びへつらう態度や彼の母に対するなれなれしさと、そんな時の嬉しそうな母の顔を見てきたことに起因する。
「あの狢めが、きゃつは表の顔で正論を論じ、裏の顔で奸計を弄する」
苦々しげに兼光は吐き捨てた。だが真正直な戦い方しか知らない父、実光の危機を、その知恵で救っていることも確かである。
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