一〇〇〇字小説まとめ：抜粋版

冬がとけるとき

　ストーブにかけた薬缶がしゅんしゅんと音をたて、湯気が少しずつ部屋の空気にとけこんでいた。障子で閉めきった六畳間には適当なしめり気と、さきほどまで炙っていたカワハギの匂いが漂っており、旧式石油ストーブのあの独特な悪臭はまだ立ちこめていないから、ちょっと幸せな時間だった。
　和真は炬燵にもぐりこみ、学校の図書室で借りてきた『シャーロック・ホームズの冒険』を読みながら、こっくり、こっくりと舟をこいでいた。祖父の鹿朗は、その向かいであぐらをかき、新聞を広げて興味のある記事を拾い読みしながら、ミカンをむいて食べていた。
　ほこほこと静かである。
　だが、その静けさは「じりりりりん」と電話がなって、消えてしまった。
　茶箪笥のうえにおいてある、じーこ、じーこ、の黒電話が大雑把な音を、波のように行ったり来たりさせ、鹿朗を呼んだ。
「はい、もしもし……はい、そうです。ええ、あー、そうですか、それはどうも。ええ、ええ……はい、どうもありがとう……はい、失礼します」
　鹿朗はペコペコと頭を下げ、受話器をゆっくりとおろし、なにごともなかったかのように炬燵にもぐりこんだ。
　すると、かわりに和真が炬燵から這いだしてきた。頬を真っ赤に火照らせた和真は天盤に『ホームズ』をふせ、大きなあくびをひとつした。
「だれからだったの？」
　ぼんやりとした口調で訊ねると、鹿朗もまた、ぼんやりとした口調で応えた。
「エヌ・テー・テーさんからだったよ」
「エヌ・テー・テー？」
「電話屋さんだよ」
「なんて？」
「受話器がきちんとおりていないから、おろしておいてくださいって……おろしてないと、電話がつながらないからね」
「ふうん……エヌ・テー・テーさんは、親切な人だね」
「そうだね」
　鹿朗はあくびをしながらうなずき、またミカンに手をのばした。それを見て、和真もふせていた『ホームズ』を取りあげ、また読みはじめた。ゆっくりと字を追いながら、こっくり、こっくりと、舟をこぎはじめた……。