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はるか四万キロ
地図の制作会社に入社して一年半。お互いに「好き」という言葉は言わなかった。
月に二、三度、会社帰りに先輩と私は近くのカクテルバーでジャズを聞きながら、他愛無い話をし、時々、会社のグチをこぼした。
先輩はドライマティーニを片手に耳を傾け、少し色素の薄い褐色の瞳で見つめてくれた。
透き通るような瞳に見つめられ、私は酔いしれるのが好きだった。
だから、〈今夜、いつものところで、飲まないか?〉とメールが来たとき、私は胸を躍らせ、〈OKです〉と送信した。
先輩はいつもと違う表情で、ドライマティーニに口をつけ、褐色の瞳を私に向けた。カシス・オレンジを舐めながら見とれていると、先輩は呟いた。
「北京に転勤なんだ」
カシス・オレンジが、ゴクリ、と喉を通り過ぎた。
「むこうの日本企業向けに、地図を作成する話があってね。今度できる会社に出向が決まったんだ」
「でも、すぐ帰ってくるんでしょう?」
私は、カクテルよりも強いショックに耐えながら、先輩を見た。
先輩は首をふった。
「四年は帰れないんだ。離れ離れになるけど…お互い、がんばろうな」
「そんな…。そんな言い方しないでください。北京なんて、たった二千キロじゃないですか。もっと遠いところは、いくらだってありますよ…」
涙がこぼれた。先輩が肩に手を置き、慰めてくれる。それが余計に哀しくなった。だから、すぐに店を出た。薄暗いビル街を無言で歩き、駅に向かった。
重い空気。
私は耐え切れず、逆に明るい口調で言った。
「先輩、地球上で私から、一番遠い場所って知ってます?」
「いや、ブラジルかな」
「ぶー。地球上で一番遠いのは、私のすぐ後ろです。振り向かなければ、ここから、四万キロもむこうなんですよ」
私は笑いながら、先輩の背中にもたれると大声でいった。
「おーい! はるか四万キロ先のせんぱーい! しっかり、働いて来なさーい! 体に気をつけるんだぞー!」
近所迷惑かもしれない。でも、四万キロの向こうなら、これでもきっと、届かないだろう。そう、どうせ届かないのなら…。
「せんぱーい! ずっと好きでしたー! もっと、先輩と一緒にいたかったでーす!」
しばらく響き、先輩の温かい背中がやさしく揺れた。
「四万キロでも遠く感じないな。北京はもっと近いんだろ?」
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