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眠らない羊飼い
冷たい夜気が昼の喧騒から解放されて澄み渡り、耳をすますと遥か遠くの大気が揺れる音まで聞こえた。
静穏。しかし――、
大気の鳴動は次第に激しくなり、だんだんと近づき鳴り響いた。
それはもう、うるさいほどに。
どどどどどどどっ!
怒涛の地響き。
白く霞んでいた物体が、地平の彼方から猛烈な勢いでやって来た。
猛烈な羊の群れ。
羊が一匹、羊が二匹……羊が何千何百何十何万匹だ。
あっという間に町を埋めつくした羊は、シープドックに追われ、無我夢中で逃げ回っている。
めえめえ。
群れに一頭だけいる黒羊に跨った羊飼いの青年が角笛を吹いた。
シープドッグが動きを変える。
ぽっぽこ、と羊が逃げ回る。アスファルトをカリカリ、ビルや民家に潜りこむ。
オフィスで、ぽっぽこ。
居間で、ぽっぽこ。
寝室に逃げこんだ羊が、寝ている赤ん坊の頭を軽やかに跳び越えた。
羊が一匹。
天井を眺めている不眠症の男の目の前を、
羊が二匹。
喉の渇きに目を覚ました女の横を、
羊が三匹。
ぽっぽこ、めえめえ。
黒羊に跨った青年は高層マンションの屋上に降りると、群れを見下ろしながら、シープドッグに命令を出した。
羊の逃げていく方向を確認し、青年は黒羊の背から荷物を降ろした。海原の移動で汗臭くなった服を脱ぎ捨て新しいシャツに袖を通す。金盥の中に貴重な水を注ぎ、洗濯を始め、片っ端から干していく。
干し肉をかじり、引っ張り出した毛布を被りながら、読みかけの小説を開く。青年が自由にできる時間は三時間しかない。三時間後には、群れとともに何千キロという距離をまた移動する。
「また、そんな格好で本なんか読んでる」
コートを羽織った女がマグカップを持って立っていた。青年は困った顔つきで女を見た。
「君のために羊を百頭も増やしたってのに……」
「ありがとう。でもムダだと思うよ。あなたがここに来るあいだは……」
女はマグカップを青年に手渡した。受け取った青年は砂糖の入ったミルクに口をつける。
「いつかきっと、眠らせてみせるよ」
「うん。でも、そうなるとミルクが飲めなくなるね」
青年はマグカップに視線を落とした。あたたかい砂糖入りのミルクが湯気を立てていた。
「それでも、君は眠らなきゃ……」
「うん……」
黒羊が、めええと鳴いた。それが合図であるかのように、女は毛布に潜りこんだ。
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