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「私が向かう火星には枯れ木はありません。何もない。賑やかしとして渋々存在を許される枯れ木すらない。地球上の生命から見ればまったくの無の世界です。気軽にNO・GU・SOを楽しむことはできません。探査隊にとって排泄物は宝です。捨てるなどとんでもない。けれど、例えば単独での活動に際して帰還に障害が発生した場合、排泄物をそのまま宇宙服の中に溜めることは出来ません。捨てなければならない。私の知識と経験は、排泄物を活かすためにも捨てるためにも使われます。それこそが私が探査隊に選ばれた理由でしょう。そして私は知っている。『枯れ木も山の賑わい』という言葉の豊かさを。地球は豊かです。枯れ木ですらありふれている。私と旅を共にする仲間たちは、いえ、その意志を引き継ぐ世代は、いつか火星の地を枯れ木で満たし、さらには豊かな緑で覆い尽くし、そして、木漏れ日の揺れる木陰で、自らを解放する自由を勝ちとるでしょう。私はその日を夢見ています。ご清聴ありがとう。また会う日まで。さようなら」
博士はひざまずき、マイクを愛おしげにステージ上に置く。静かに頭を振った。それからゆっくりと立ち上がり、スポットライトの中心で手を伸ばす。その手を大きく振ったかと思うと、そのままくるりと後ろを向き、光の当たらない闇の中へと消えた。
残されたマイクに落とされたライト。その向こうに観客たちの視線が集まっていた。何かある。気配ではない。微かにぬめり艶やかに光を跳ね返す。存在に気づいたライトが動いた。美しいトグロを巻いた「それ」が露わになる。
私は立ち上がった。叫ばずにいられなかった。万感の思いを込めて「ブラボー」と。痺れるほどに手を叩く。博士の、多分、地球での最後となるチャレンジ、ラスト・シュートは、私たちの挑戦を軽く飛び越え、あまりにあまりに見事であった。とめどなく流れる滂沱の涙を私は拭いもせず、博士に感謝と別れの拍手を送り続ける。私に続いて観客たちが続々と立ち上がる。そうだ、私たちは誰もが皆エクストリーマー。その頂点に君臨し、新たな極限の地である火星へと旅立つ博士に惜しみない拍手と賞賛を送ろうではないか。
「マジかよ……」
観客が去った客席を片付けにやってきたホールの職員はすべての客席にちょこんと鎮座するトグロを見て絶句した。
「ウンコはトイレでしてくれよ……」
おしまい
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