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そんな日常を過ごしていたとある日に。ひとりのスーツ姿の男性が、結衣の前にやってきた。
「高城結衣ちゃん、かな?」
それは、兄と図書館へ行った帰り道。そう声をかけられたけれど、「知らない人に話しかけられても答えちゃダメ」と聞き教わっていた結衣はだまり通して聞こえないふりをしたし、兄は結衣の手を取って少しだけ早足になった。少し小走りになるが、ついていこうとしたその時に。
耳鳴りのような、今まで一度も聞いたことのない、ざわざわする音と共に結衣の背後、男の方から少し風が遊ぶように舞ってきた。そして、隣の兄が突然その場に倒れ込む。
慌てて兄の身体を支えたが、それと同じタイミングで先ほどのスーツの男がいつの間にかそばにおり、結衣が支えるには大きすぎる兄の体躯を支えていた。
「おにいに何したの」
「何もしていないよ。よく周りを見てごらん」
その言葉に、結衣はその男から目を話すことなく、それでも周囲の気配をさぐる。
そこで、気がついた。
どうして、この世界はこんなに静かなのだろう。
普段は聞こえる車の行き交う音、立ち話をする人の声、冷やかすように騒ぐカラスや猫の鳴き声など、楽しくも賑やかしいこの街が、ひどく空虚な場所になってしまった気がした。
けれどやっぱり、この男が何かしたとしか思えなかった。
結衣が疑念を抱いたことに、彼も気がついたのだろう。じっと見つめる結衣に「私はお兄さんに何かしたわけでもないんだよ」と彼は繰り返した。
「変わっているのは、結衣ちゃん。きみの方なんだよ」
「……どういうこと?」
変な人だと助けを呼んだり、怒ったりするのが普通だったのかもしれない。
けれど、結衣はそれをしなかった。
何故なら、理由こそわからなかったが、この男の言っていることが「本当」だと、頭で理解できてしまったからだった。きっと、変わってしまったのは、自分の方なのだと。
結衣が歳に似合わぬ冷静さをもって問いかけたことに、男は「賢い子だね」と彼女のお下げ頭をなでた。
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