ひとくい

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梓は夢の中で父親と手をつないで歩いていた。 父親が愛情を示したのは母・京子のみであり、この映像は、梓の願望が生んだ虚像に過ぎない。 それは、他の記憶についても言えることなのではないか。 杉浦が京子に変装して精神科に入院していた梓を見舞いにきたことも、ただの幻影だったのだろうか。 梓は何が何だかわからなくなって、一人泣いた。 気を失った現実世界の梓も、一筋涙を流す。 杉浦は梓をだきしめようとしたが、かぶった薬品の毒性を考えて思いとどまった。 薬品はただの酸ではないだろう。 少しずつ身を蝕んでいく、何かだ。 杉浦の長年の勘がそう語っていた。 だがそんなことは関係ない。 杉浦には、死を阻む手などいくらでもあった。 肉体が死して霊的なものに昇華した自身の魂を他の肉体に定着させれば、杉浦京太郎という存在はいくらでも生みだせる。 それは、京子――クロノスがしていることと大差はないかもしれない。 しかし、京太郎にとっては、ある意味、肉体的な死が始まりになる。 肉体的に死してしまえば――脳が死んでしまえば破滅を意味する京子とは違い、杉浦は、自分の記憶やら人格やらを常に魂に刻みつけている。 杉浦の思考や記録媒体は、脳ではなく魂にあるのだ。 クロノスがその術を得たら、あるいはすでに得ていたら話は違ってくるが、今のところ、クロノスは肉体に頼らなければ宿願を成就できない身だ。 神の子の母親になれても、それを認識できる脳が正常な状態で機能していなければその快感は得られない。 突破口があるとすればそこだろう、と杉浦は考えた。 それを梓に伝えるかはまだ時をかけて考える必要がある。 梓の昔の人格から生まれた壁子にも悟られてはいけない。 何らかの形で梓に伝わってしまうかもしれないからだ。 壁子とのつながりが強くなれば、梓は、杉浦の手の届かない所へ行ってしまうかもしれない。 杉浦はそう思って人知れず涙した。
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