喪失

17/19
前へ
/19ページ
次へ
「私かどうかわからないじゃない?」 「大丈夫。私はちゃんと登録しておきますから」 春海の思いが流れ込んで来る。自分の名前を頻繁に目にするのは、雪華の為にはならない。過去に繋がるものは、新しく人生を始めるときに邪魔になる。特に、春海の名は信二郎との思い出に直結する。 将来を想像した時に、雪華が罪悪感を感じないように。 そうやって自分は忘れられて、独りで記憶を溜め込んで行くのね。馬鹿な人。それじゃ友達には、なれないじゃない。 「それと。 雪華さんが思っているほど、周りの人は意地悪な人ばかりではありませんよ。私と話すように、他の人にも話してみてください。日本語わからないって顔をせずに。 笑ってください。さっきみたいに。貴女が笑うと周りも明るくなります」 雪華の背中をぽんぽんと叩く。彼女にはそれが、大人になりなさいよと母親に諭されているように感じる。 「ありがとう。これ引き出しに入れておく」 今までと同じように。必要なときに引っ張り出す。 「そうしてください。 それでは失礼します。ありがとうございました」 「私こそありがとう。無理言ってごめんなさい」 静かにドアを開けて、彼女が出ていく。思わず伸びかけた手を、慌てて引っ込める。 心の中で呟く。 「再見」
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

32人が本棚に入れています
本棚に追加