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遠くで声がする。
――き――た。
た――なた――
――よ――あなた――
照明の灯りが網膜を刺激する。
霞む視界が段々と晴れて行き、寝坊助な残りの五感もまた渋々と働き始めた。
すっかりクリアになった視界に飛び込んで来たのは、涙に濡れた笑顔の妻だった。
「よかった……! もうダメかと思ってたのよ……?」
声を出そうとしても言葉にならない。いったい何日のブランクがあるのだろう。
私は数分の時をかけてようやく言葉を吐く。
「……た……だ、いま」
言葉にこそなったものの、それは酷く掠れた声で――けれども妻は嬉しそうだった。
「ただいまって、変な人ね。でも、おかえりなさい」
「……ああ。ただいま」
噛み締めるように頭の中で何度も反復する。
『またね』は『さようなら』とは違う。離れることを伝えると同時に、再会を約束するものだ。
彼女はかつて病床でそうしたように『またね』で締めくくった。向こう側で待っていてくれるのなら、急ぐ必要もないだろう。
だからそれまで、彼女への想いはしまい込もう。私には帰る場所が、帰りを望んでくれる人がいるのだから。
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