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次の瞬間、伸びてきた母の手が強引に黒い男から私を奪った。訳も分からないまま私は母にぶたれて、ヒステリックに大声で喚き散らされた。
「早く〝それ〟を帰しなさい!!」
〝それ〟とは黒い男のことについて言っているのだと、当時は分からなかった。何をどこに帰すの、と訊く間もなく私は母に何度も何度も蹴られ、痛みと哀しみで胸が張り裂けそうだった。そして、泣きながら身体を庇う腕の隙間から、私は自分の傍に黒い男が立っているのを見た。
彼は変わらず無表情だった。覗き込むように身体を屈めて、静かに私を見下ろしていた。
男と目が合った。
「……たすけて……」
自分でも聞き取れないほどの声で、私は黒い男に向かってそう言った。
黒い男は、煙のようにすっと消えていった。
母はまだ何かを喚きながら私を蹴り続けていたが、やがて視界に入った包丁を掴んで大きく振りあげた。
「アンタさえいなくなれば―――」
母がそれを振り下ろそうとした瞬間、棚の上にあったガラスの置物が、不自然にぐらりと傾いた。スローモーションで落ちていったそれは、母の後頭部に当たって鈍い音を立てた。
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