第六章 雨(16話)

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「警察には言わないでください」 「そう言われても」 「本人も望みません」  振り返ると、看護師は怯むように腹の前で手を重ねた。 「貴方の傷は明らかに刃物です。それに湯澤さんは――」 「言わないでください。彼には絶対に、何も。俺のことも、彼のことも何も」  無茶なことを言っているという自覚はあった。しかしそれでも通さなければならなかった。何をしてでも、利の傷を広げるようなことだけはしたくなかったのだ。  立ち上がって看護師と向かいあう。 「怪我は、酷いですか」 「危険な状態というわけでは……」  力が抜けそうになった。それで酷く力んでいたことを知った。 「連れて帰ります」 「それは」 「帰ります」 「――先生に相談しないとわかりません」  すっかり気負けさせられたような彼女は、疲労したような顔で病室を出ていった。何が何でも、利が目覚める前に連れて帰りたかった。利に現実を、見せたくなかったのだ。  結局担当の医者に無理を通して退院をさせた。帰ったところでしばらくは毎日通院が必要だと呆れながら言われたが、それでも家に帰ると押しとおした。  おぼろげに瞼を開いては閉じる利を抱きかかえてタクシーに乗った。夜中なのか明け方なのかはわからなかった。揺れる車窓からまばらに街灯の明かりが差しこんでいた。怒りのような不安のような感情を張りつめさせながら、俺は膝で眠る利の顔をひたすら見つめた。右の頬と耳に擦過傷があった。アスファルトで擦れたに違いなかった。考えるだけで胸が張り裂けそうになるのを、利の髪を撫でることでやり過ごした。  帰宅して駆け寄ってきた猫たちは、俺たちを見るなり怯えるように逃げ散った。利を自分のベッドに横たえ、餌の器にフードと水を入れ、再び利の元へ戻った途端に俺は崩れるようにベッドに倒れこんだ。  毛布をかけて、上から利の身体を抱き締める。息を吐いて目を閉じて、そこで途切れた。      *
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