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インターフォンが鳴った。
利は動かない。眠ったようだ。起こさないようにそっとベッドから脚を下ろし、立ち上がる。振動にちいさく利が唸って、寝返りを打つ。
ドアを開けると、ビニール袋を両手に提げた葵が立っていた。黒いコートにワンピースを着てメイクのままだ。中世の変態貴族が日本の街で買い物をしたような姿は相変わらずで、もう苦笑いも出ない。
「口紅くらい落とせ」
「時間がもったいなかったのよ」
葵は黒い唇を弧にしてキッチンへ直行し、冷蔵庫に食料を詰めてゆく。俺はコートを脱がせてやって、ハンガーにかけて紅茶の準備をする。
「利は寝てるの」
「今寝た」
「調子は」
「相変わらず」
葵が寝室の方を見る。ため息をついて髪を耳にかける。
「せっかく、元気になったのにね」
差しだすカップを受け取りながら、淋しそうな目で呟く。心配しているのは俺ばかりではない。メンバーは全員知っている。俺の腕のためにバンドの仕事も制限されるのだ。筋として、事情を話さざるをえなかった。
ソファに座り、向かいあってカップを口に運ぶ。熱い紅茶に眉が寄り、吐く息に湯気がゆらめいて目の表面を撫でてゆく。
「静かね」
頷いて、カップをテーブルに戻す。まるでひとりで暮らしていたころのようだ。
「利のバンド、休止宣言出したわ」
「そうか」
「利も知らないんでしょうけど」
「だろうな。俺も初耳だ」
ため息を漏らす。利は、あんなことがあっても、活動休止を喜ばない。むしろ汝緒たちの現状を気にしてよけいに胸を痛めるだけだ。このまま縁が切れることも、望んではいないのだろう。
「――ったく。とことんお人好しだよ、奴も」
二度目のため息で出たひとりごとに、葵が鋭い。
「奴って誰よ。あんたのほうがお人好しじゃないのよ。まったく、大事な手、だいなしにしてさ」
不機嫌そうにカップを覗く葵に、苦笑いをする。
「ま、いいけど。薫はホントに利のこと、好きだもんね」
こんどは口を尖らせて顔を背ける。
「なんだよ、それ」
すこし芝居がかっているのに笑って、呆れたふりをする。
葵はたぶん、俺が怪我をしてまで利を守ったことを怒ってはいない。好きな奴のために腕くらい犠牲にしなくてどうする。そういう男だ。誰よりも男前なのは、こいつなのだ。彼に比べれば、俺など女々しい。
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