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「あんた、事務所に用事あるんでしょ」
横目の葵に頷いて紅茶を飲み干す。
「利、頼んでいいか」
「そのために来たのよ、あたし」
不機嫌に可愛いことを言う。俺は笑って立ち上がり、首を鳴らした。
「くれぐれもイタズラすんなよ」
「わっかんないわよぉ」
目を細めて笑う葵に嫌な顔を作ってみせて、寝室に向かう。着替えを済ませてサングラスを取る。
眠る利の額を撫で、柔く閉じられた唇を見る。
葵がいれば、大丈夫だろう。
もういちど額を撫で、俺は寝室を出た。
*
――もう寝ろ。めんどくせえから。
――早く。目閉じろ。
――早く、殺せ。
――早く、早く……
「利、悪い夢でも見たのね」
目の前に葵ちゃんの顔があった。穏やかな笑顔に、とたんに呼吸が楽になる。
しっとりとした不快感がある。背中も首も冷たい。酷い汗をかいている。
葵ちゃんが顔にかかった髪を掻き上げてくれる。呼吸が浅い。なぜ、また。昔の夢を見るなんて久しぶりのことだった。
ふと、隣にいるはずの人がいないことに気づく。
「薫くんは」
「事務所。ちょっと仕事があって」
「そう……」
「そんな顔しなくても、すぐに帰ってくるわよ」
くすくすと笑われて、つられてはにかむ。自分は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
「なんか飲む?」
葵ちゃんが明かりを点けて部屋を出てゆく。余韻を引きずる胸を撫でて起き上がり、ぼんやりとする頭を掻きながらあとに続く。廊下の向こうから山田が歩いてきて、脚の間を縫ってゆく。この家に住むひとも、来るひとも、みんな優しい。山田は、ひとじゃないけれど。
葵ちゃんがキッチンに入ってお茶の準備をはじめた。
「髪の毛、すっごい可愛いじゃない。さすが前田さんよね」
弾んだ声でカップを取り出す姿を見ていると、こちらも笑顔になる。彼や哀ちゃんに可愛いと言われるとなんとなく嬉しくなるから不思議だ。たしか、昔はそう言われて顔を寄せられると、ちょっとこわいと思っていた。思い出して、よけいに笑みがこみ上げる。
しかし、彼の俯く高い鼻を見ているうちに、だんだんと胸の裡が暗くなってきた。
薫君の腕のことを、謝らなければならない。自分のせいで怪我をし、そして葵ちゃんたちにも、迷惑をかけているのだ。
どう、言おう。どう言えば、いいのだろう。
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