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葵ちゃんの声に、ふいに〝Chopin〟の綴りが浮かぶ。
「――フランス語? モン、シェリ?」
「そう」
葵ちゃんがカップを置いてMON CHERIを取る。唇が上機嫌に微笑んでいる。
「はい」
ビニールと紙を剥がして、手のひらに載せられる。自分はもう食べられないから、そのまま薫君に差しだした。
「で、意味は?」
薫君がのんびりと指を伸ばし、促した。溶けるからと急かすと、彼が口に入れて、葵ちゃんが続けた。
「My Darling……愛しい人」
薫君の唇が、一瞬動きを止めた。
静まった。
自分は、立ち上がった。
「ちょっと、やっぱ調子悪いから、寝る」
「あらどうしたの、さっきから」
背中を追う葵ちゃんの声を無視して、リヴィングから飛び出す。
廊下に満ちる冷えた空気が、熱い頬を撫でてゆく。
もう、彼の顔は、見られない。
くだらないと、ずっと思っていた。だから、そんなことを口にする女たちも、汝緒たちに纏わりつく子たちも、それを口実に使った片桐もあのバンドマンも、わからないと思っていた。
なにかが胸の中で張り裂けそうだ。自分がこわい。とてもこわい。彼へ惹かれてゆく想いと、汝緒たちへの後ろめたさに、押しつぶされそうだ。
好きになるということは、こういう気持ちなのか……?
寝室に飛び込んで、勢いよく扉を閉める。立っているのも辛くて、ドアに背を預けてしゃがみこむ。
「もう、わかんない」
こめかみが締めつけられる。涙が出そうになるのをこらえ、抱えた膝に顔を埋めた。
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