第一章 出会う(3話)

6/6
69人が本棚に入れています
本棚に追加
/177ページ
 見送りはいいと言って葵は寝室を出て行った。渡しそびれた楽譜を置きにきただけらしい。  利は結局泊まることになった。なんとなく事情を察してくれた葵が説得し、どうにか頷かせた。葵の声が聞こえたときには面倒なことになると思ったが、おかげで利をここへ留められる。張り詰めた空気も薄れて緊張もだいぶ解れたようだ。そういう手腕については、奴には敵わない。少しだけ、感謝しよう。  しかしほとんど勢いで連れて帰ってきてしまったが、その後どうするかまでは考えていなかった。そうというよりも、考える余裕がなかったのだ。  一泊することで状況が変わるとは思えない。  とにかく、しばらくここに居候させるほかないのか。  葵の出ていったドアから顔を戻し、両手を腰にやりながら利を見下ろす。 「とりあえず、着替えるか」  利は服を見るように俯いた。さすがに血の付いたスキニーで寝かせるのは不憫に思いスウェットのパンツを着せてやっていたが、上はそのままだ。シャツの下に着ているカットソーは破れている。そこに触れるのは気まずいところではあったが、俺は極力何事もなかったかのような声を装って、続けた。 「風呂は? 入れるか」  こくんと頷く。 「はい……」  ふう、とひとつ息を吐く。 「つか、あんま歳かわらねえんだから敬語じゃなくていいよ。一個下とかだろ」  確かTOURNIQUETは全員一学年下だった。俺は左手を首のうしろに置いた。 「それに、サンもいらねえから。薫でいいから」 「それは、ちょっと」  利は難しい顔をしている。 「とにかく、サン付け以外。なんか家でも仕事してる気になる」  これからしばらく同居人になるのだ。先輩後輩の関係のままだと互いに疲れて苦痛になる。だが利は困ったように俯いてしまった。一学年しか違わないといっても、この業界では気にもなるのだろう。 「そうだな。じゃあ、くんとか」  利は少し考えて、顔を上げた。 「じゃあ……、くん、で」 「オケ。それで」  俺は頷いて、首から手を下ろした。 「薫、くん」  利は確かめるように俺の名前を呼んだ。そして俺が笑むと、同じように口許を緩めてわずかに笑んだ。  それが利が向けた、俺への最初の笑みだった。
/177ページ

最初のコメントを投稿しよう!