69人が本棚に入れています
本棚に追加
/177ページ
「塩か、醤油か」
ガラスボトルをテーブルの上で滑らせる。利は醤油を差しだしたタイミングで頷いた。
「いただきます」
手を合わせて首を前に倒すのに、安堵の息を漏らす。どうやら正気に見えるし、食欲もあるようだ。
トーストを齧りながら時折テレビに視線を向けている。虚ろで眠そうだが、ちいさな口はのんびりと咀嚼を続けている。
時間をかけて目玉焼きを食べきったところで、利は唇を指先で拭い、呟いた。
「久しぶりに食べた、朝飯……」
「もう昼だけどな」
相変わらず寝惚けたような顔に笑い、フォークで皿を突きながら上目で見る。
「いつも朝飯食わねえの」
「食べてましたけど」
手が止まる。
「最近は食べてない、です」
視線を横へ流し、再びトーストを齧る。
俺は誤魔化して、鼻を吸った。
「そっか。つか、良く寝たな。すっきりしたろ」
「あ、はい、うん。かなり……」
怖々と尻すぼみになる声に笑うと、利もつられるように笑う。
「けど、寝すぎてちょっと、ボケてるかも」
「みたいだな」
「久しぶりに、寝ました」
「そんなに眠れねえのか、いつも」
「――まあ」
俯いた利を見て、またやったと胸中で舌打ちをする。痛々しい泣き顔が蘇る。眠れてるわけ、ねえだろ。
「ほれ。お前さっきからベーコンばっか食ってるだろ。これもやるから目、覚ませ」
「あ、ありがとうございます」
なるべく明るい声で言って利の皿にベーコンを載せてやる。
久しぶりの朝食に久しぶりの睡眠。普通の会話が地雷になりかねない。今こうして何気なく向かい合って食事をしているが、彼にとっては、こんなことが非日常なのだ。
想像すら追いつかないような世界で、この男は、何を思って、生きていたのか。
俺には彼の生活に踏み込み、否定する権利はないだろう。傍迷惑なことなのかもしれない。しかしやはり、もう元の生活には帰ってほしくない。これが普通の人の暮らしであると、目を覚ましてほしい。
最初のコメントを投稿しよう!