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見ず知らずの人からの強い愛情、ときにそれがこそばゆいときもあれば恐ろしいときもある。だがいやかといえば、それはない。俺は近づく門の前の人々を眺めて、密かに息を漏らした。彼女たちは俺に時間と金と感情を費やしている。自分が憧れのミュージシャンにそうしてきたように。そう思えば、彼女たちに挨拶を返すこと、サインに応えることなど苦痛にはならない。俺は入り口の硝子ドアの前を過ぎ、長い時間彼女たちの手の中で温められたプレゼントとペンを受け取るため、キイごとポケットに突っ込んでいた手を出した。
「おはようございます、薫さん」
声を揃えて頭を下げ、背中を追ってくるローディーたちにサングラスを外しながら手を上げる。
「おはよ」
「葵さんと哀さんはもうスタジオに入られてます」
「早えな」
「ギターソロを合わせるとかで」
「ああ、あれ結構ややこしいからな」
楽屋の扉を開けて、いつものように鼻腔へ流れてきた甘い香りにため息を吐く。咽るほどのバニラ。クリスチャン・ディオールのプワゾン。葵の香りだ。
葵に先に楽屋入りをされると、決まって香水を撒かれる。楽屋の匂いが気に入らないらしい。神経質なのか無神経なのかよくわからない。だがこれのおかげで、まるで自宅にいるような安堵感が生まれる。どこの現場に行っても、常に同じ心持ちになれるのだ。
畳の上に上がり、座布団に胡座をかく。
「リハまであと二時間ありますが、薫さん、朝食は済みましたか」
テーブルを挟んで腰を下ろすマネージャーに首を振る。
「いや、食ってねえ」
「なら食いに行くか」
扉の方から皓の低い声が聞こえた。振り返り、頷いて立ち上がる。
「珍しいな。お前もまだか」
「ああ」
晧が扉に挟んでいた身体を引いて部屋を出る。行ってくるとマネージャーに手で伝え、俺はブーツに足を落とした。
「何時に入った、お前」
「さっき。哀に置いていかれたからな」
「さすが仲良し兄弟」
「まあな」
互いにエレベーターの点滅する数字を見上げたまま、くすりともしない。晧は哀の弟で俺たちのひとつ下だ。哀と違って口数は多くはない。喧しいギタリストたちと違ってこのドラムは落ち着いていて、俺たちは揃ってさすがはリズムセクションとよく言われる。実際に、普段もこの男といると俺は安定する。波長があうのだ。
しばらくして扉が開き、俺たちは踏み出した足を止めた。
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