序章(1話)

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 東京の輝くビルの灰色の群れは、嫌いじゃない。とくにガスっているようなおぼろげな景色は、どういうわけか気持ちが静かになる。  そしていつも、アメリカの景色を重ねる。  下宿先のダウンタウンのビジネス街。ホームステイ先の家族や親しくなった友人たち。ギターセンターやアメーバレコードの店員に、ライヴハウスのスタッフ。大勢のミュージシャンと知り合い、優秀なエンジニアと出会い、最高のベーシストに師事した。  あの頃に起こった出来事のすべてが今の自分を形成している。こうしてこの場で朝食をとっていられるのも、あの生活があったからだ。  アメリカでの生活が、自分を変えた。  そう。何もかも、変えたのだ。  思考は流れてゆき、視線の先が霞んで、思い出すひとつの出来事。  ――違うのよ、薫くん、あなたは悪くないわ。 「おい」  ふいに飛び込んできた皓の声に、俺は意識を今に戻した。 「何ボっとしてんだよ、そろそろ行くぞ」 「ああ、悪い。行くか」  冷めたコーヒーを飲み乾して立ち上がり、俺たちは会計を済ましてラウンジを出た。  プロのベーシストとして三年になる。LSDは平均的なメジャー入りに比べて早かった。高校在学中にインディーズレーベルに所属し、卒業前には大手のレコード会社からのオファーが来た。音楽への情熱と貪欲さ、それゆえの活発さ。そういうものが評価され、俺たちは驚異的な速さでこの場所までやってきた。  もう二十一だ。周りを見ると、悲しいことにいかに自分が老け込んでいるかがわかる。おそらく、短期間のうちに濃厚な経験を重ねたからなのだろう。  高校を卒業してメジャーデビューをし、同時にアメリカでの音楽修行に出た俺のベースは業界から賞賛を受けた。若いのにすごい、誰もが決まってそう言う。素直に嬉しいとも思うが、やはり若さゆえの甘さもあるのだろうと思う。
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