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「いちいちおまえさんが口をはさむから、どこがどうなったか忘れてしまったっしょ。」
「陥落のところです。」
妙子さんの口元は緩んでいた。
「そうだ、陥落したわけだ。けど、こんどはまわりの者が許さない。」
「どうして。」
「かれは長男だし、女も婿取りだ。ふたりは町を追われた。いくところは都会しかなかった。だけども、知ってるひとはいないし金だってあるわけじゃない。日がたつうちに、ないない尽しになっちまった。こういうとき女は強いべ。このひとに賭けたんだ。白米に涙の塩して食べる。日に日にかれはやけになる。けど彼女は待った。待って、待って、とうとう冬をしのいだ。やがてかれは稼いだ金で彼女を飲み屋に連れていった。」
わたしの口はもはや絶好調であった。
「その帰り道、坂道を歩いていると、道端に桜が咲いていた。
『春なんだ。これから始まるんだ。』
かれは彼女のまわりで踊り始めた。それはかれのふるさとの踊りだったんだ。
『むすめができたら桜子と名づけよう。』
彼女は頬をほんのりと染める。淡色の花弁にかすかな匂い。おまえは桜そのものだ。」
「『おまえは桜だ。』かれはいった。
どこにでもいるような女だと思っていた。
だがどうだろう。その日、その夜の桜はどこにでもあるような桜ではなかった。散るのはまだ早い。」
よこを見ると、妙子さんは唇をかんで聞いている。思えばわたしは妙子さんにではなく、わたし自身に語っていたのかもしれない。
わたしが黙ると、妙子さんは顔をあげた。
「その女、決して強かったんじゃないと思います。信じていたんです。その方のことを。きっと。」
ぼんやりとコップを見つめていた。
「白米に涙の塩して食べたことはないけれど、あなたはありますか。」
「ある。」
「そうですね。経てみないことには判らないことですものね。でも、やっぱり、そのひとを信じていたんだと思います。白米に涙の塩って悲しいことかしら。」
「いや。」
「どうしてです?」
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