〈五〉

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「深谷、オメエ、この店継ぐ気はあるか?」  年明け早々心臓発作で病院に運ばれたマスターが店に帰って来て一週間が経った頃、閉店準備を二人でやっていると耳を疑うような提案がボソッと聞こえてきた。 「いいんすか。俺、コソ泥ッスよ」 「バカヤロー、俺だってお前みたいな奴に頼みたかあねえよ。だがな、お前くれえのもんだろう。張っ倒されてボロクソ言われてもノコノコ戻って来ちまうヤツはよ」  電動シャッターが下りて、俺も店内に戻る。青いラバランプの電源を落とすと窓からわずかに朝日が差し込んできた。 「それに、ケッコンすんだろ? アルバイトの分際でよお。お前のその向こう見ずな性格、嫌いじゃねえんだ。きっと継いでもうまくやってけるさ」 「……経営者ってのは、やっぱり耳が速くて口が上手いんすね」 「まあ、考えてみてくれ。俺もそろそろ引退してえ歳なわけ。お前が継がねえってんなら、この店は俺の代で閉めようと思ってる」 「息子さんは?」  マスターの薬指にはがっちりと噛み付くようなシルバー。 「あいつは大学出て、今は東京で不動産の営業やってら。こんな仕事、息子なんかに継がせてたまるかよ」 「要するにションベン臭え仕事だと」 「そう」 「ふざけんな」  肩を軽く小突いただけで、あれほど俺をボコボコに殴りつけた頑丈だったはずの身体が、いともたやすくぐらついた。それを見ないふりして、嬉しいやら悲しいやら、頬を伝う熱いやら冷たいやらの塊がちょうど拭った俺の袖に吸い込まれていく。  俺と深淵があれから八度目の春を越えて、お互いに愛する人を見つけて、知り合いにまでなり下がったところで、もうあの頃が笑い話になってしまったところで、あいつは俺より一足先にそこそこ有名なバンドマンの彼と結婚した。  うまくやって行けよ、と言った気持ちに嘘はない。俺の好きな人は深淵とは似ても似つかぬ、胸だって小さいし、鼻だって団子っ鼻で、その上……底なしに明るい人だ。  マスターは俺たちの交際を自分のことかのように喜んでくれた。しかし、こうとも言った。 「深淵はすぐそこにあるんだぜ」  犯してきた過ちからは逃げられない。一度踏み込んだ深淵からなら、なおさらだ。俺はだから、怯えながら生きていくのだろう。  そうそう、深淵と名乗った彼女の名だが、一度も教えてもらうことなく終わったのだった。
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