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ある朝のこと。
いつものように牛車で出勤する中将を見送った秋津は、屋敷に戻る途中で、突然腕を掴まれ、茂みへと引き込まれました。
驚いて見れば、尋でした。
「何を…!?」
言いかけた秋津の口を尋の唇が塞ぎました。
突然の口づけに驚く秋津でしたが、心の内には空っぽだった器に水が注がれていくような恍惚とした充足感が満たされていきました。
ひと時の口づけの後、尋は耳許で囁きました。
「許せ、秋津。吾はもう我慢できん。お前が恋しくてたまらんのだ」
「あ…いけません」
秋津は拒否してみせましたが、それも形ばかりのものでした。
秋津も自分が何を求めているのか、気づいてしまったのです。
それからというもの、秋津は、中将の留守中に人目を忍んだ逢瀬を重ねておりました。
もし、他の誰かに見つかれば、そこで全てが終わってしまう危険な恋。
しかし、尋の口づけは、そうした不安や迷いを全て掻き消してしまう。
秋津はもはや引き返せないところまで来てしまっておりました。
季節は冬。
寒い日が続くある日のこと。
尋が相談を持ち掛けてきました。
「秋津、吾とともに此処を出よう」
それは駆け落ちの相談でした。
恋心こそ抱いてはいないものの、中将は秋津や父母を雅なる都の世界へ掬い上げてくれた方。大切に大切にしてくれた大恩ある御方です。
秋津は、大いに悩みました。
自らの恋に全てを捨てる。そのようなことができるでしょうか。
しかし、もはや尋無しの人生など、秋津には考えられません。
「私は…」
答えに窮する秋津に、尋はそっと告げました。
「今宵は雪が降る。夜の闇と舞い降る雪とが、二人を包み隠してくれるだろう。丑二刻までに来ない時は…吾一人でここを去ろう」
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