序章

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ぶつぶつと兄の文句を頭で並べている内に、母の顔が頭に浮かんで離れなくなった。 兄への苛立ちは次第に孤独の不安に変わる。 このまま森を出られなかったらどうしよう。大人が恐れる獣と遭遇して食べられてしまったらどうしよう。 宛てなく歩き続けているのも辛くなり、そのまま木の根の窪みに屈みこむ。 どこからか聞こえる獣の遠吠えに身を小さくし、いよいよ泣き出したくなった時、視界の先にぼうっと光るものが見えた。 はっと息を呑む。 遠くの黒い森の影に、青白く光り輝くものがある。 目を擦っても、何度瞬きを繰り返してもそれは光り続け、陽の光よりも薄暗く、そしてまた青白く、不気味とも言えた。 身を起こし、中腰になりながら恐る恐る目を凝らしてみる。 正体が何であるのか定かではない。 もしかしたら兄が火を起こしたのかも知れない。ここはとても暗いから。 どんな不気味な光と言えど暗闇よりかはましだった。 光る場所に何かがいるのは確かであるし、獰猛な獣であることはない。 願わくは兄であることを必死に願いながら、疲れ果てていたはずの両脚に力を入れる。 一目散に光に向かって駆け出そうとした瞬間、突如光が増し、目を開けていられなくなった。 次に目を開いた時には光はなく、光っていた場所に一人誰かが立っていた。 兄ではないことは明らかだ。 齢十の兄よりもずっと背が高く、姿かたちからして大人だった。 あんなにも光っていたのだから、化け物であるかもしれない。 言い難い不安があったのに私が彼に引き寄せられるかのように近づいたのは、差し出された白い手があまりに優しく思われたからだ。 黒い空間に、白い、大きな手がそっと私に向けられている。 おいでと、声が聞こえて来そうなほどに柔らかな仕草だ。 辺りが暗い所為で、白い手はとても映えた。 手を伸ばしたら、白い手はゆっくりと私の手を握った。 握られた途端、奥にあった身体が視界の中に現れた。 まるで形を得たかのように影であった姿ははっきりとした輪郭を持ったのだ。 男だった。ムラにいるような、何の変哲もない男の人。 握った手にぬくもりはあったが、人のそれというよりも、この森に息づく樹木の温かみに良く似ていた。
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