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いつだって私は自信がなかった。
アサヤは私よりもずっと若いし、今をときめく絵本作家だ。
収入も未来もある彼を自分に繋ぎとめることは時間を浪費させることなのではないかと虚しくなって、それなのに彼が店にやって来るのを待ちわびた。
「ヨルさん」と、彼は私の名を呼ぶとき、少し上ずった口調になる。
その最中、私は「アサヤ」と囁いて背中に爪を立てる。
男女の仲になっても、彼は私の作る作品に異様に執着を見せた。私が愛されているのか作品が気に入られたのか分からなくなるけれど、それを訊ねたら今までの出来事が泡沫の夢になってしまいそうな予感がして、結局聞けなかった。
たまに、彼が亡霊みたいに感じることがある。
タバコの臭い、汗ばんだ肌、吐息のどれもが現実(リアル)を訴えかけてくるのに、どうにも現実感の褪せた幻想を歩んでいるようだった。
「……もうじき、バレンタインか」
二月のカレンダーを見てため息をつくと、私は視線を落とした。
しばらく忙しくなります、と彼が言った通り、今月は一回もアサヤに会っていなかった。
経験的には離れていても平気だと思ったのに、どうしてか胸が苦しくて生活に支障がでるほどだった。
荒れ狂った大海原にヨット一隻で航海に出てしまったような、はてさてロープで首を絞められるアヒルになったような妙な感覚に振り回されている。
もしもアサヤがこうしている間に他の女と遊んでいたら――、
「――そうだとしても、私に責める権利なんてありようものか」
嘘つきな私が嘘をつかれたとしても、自業自得だ。
偽りに欺瞞を重ねられた元旦那の気持ちはこんな思いであったのだろうか。
棚に並んでいる、アサヤが特に好んでいたフェイクスイーツのチョコを見て、私は自分の気持ちに変化が起こっていることを自覚さぜるを得なかった。
そもそも、私は未だ一度もアサヤに好きだの嫌いだの言ったことがない。
その逡巡の中で、誤魔化して……そうしてズルズルと引き延ばしていたけれど。
この辛い想いが、恋か。
この切なくて苦しい衝動が、恋に落ちるということなのか。
そうだとすれば、とっても……。
とても、あの人には悲しい想いをさせてしまったのだと思う。
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