5人が本棚に入れています
本棚に追加
直後、何かを掴む音が聞こえた。気にせず、文章を練ってみるが、なかなか思い浮かばない。そもそも、どういう構成で書くのかも考えていないのだ。文章など、浮かぶわけがない。
煮詰まった頭を抱えそうになったその時、傍にことりとマグカップが置かれた。黒猫のプリントされたものだ。コーヒーの香りが一際近くにある。一口啜ろうとして、手が止まる。カップとともに、小さな黒い塊が置いてあった。
ーーチョコか。
真横から見ると台形の断面をしたその立体は、コーヒー以上に甘ったるい匂いを醸していた。サラに礼を言って、学校のことや友達のことを訊いてみた。入学当初こそ、友人づくりが思うようにいかなったものの、今では何人かの友人ができて仲良くやっているらしい。時々俺の家に連れてくることを除けば、いい傾向だ。
彼女のおかげでいくらか気晴らしができたものの、妙案は降ってこなかった。集中もだんだんと切れてくる。ふと、チョコレートが目に入り、Eが彫り込まれた一つを口に入れる。カカオの香りが口いっぱいに広がった。
ーーううん……。
うまかった。てっぺんにアルファベットが象られた、ありふれたものだ。特別何かが入っているとか、フレーバーがどうとかではない。それでも、うまい。
甘いものに目がない俺は、サラによく、こういうものをもらう。キャラメルとか。そんな大したものではない。スーパーで簡単に手に入るものだ。だが、これがなかなか、煮詰まった頭にいい刺激になる。
ちょうど、今書いているのはホワイトデーに関するエッセイみたいなものだ。バレンタインにもらったもののお返し、というテーマで書いてくれという依頼だった。テーマ自体はなんの変哲もない、つまらないものだ。毎年毎年、同じようなモノが世の中に出回る。
だが、そんなありふれたものを書いているのでは、いつか俺も埋もれてしまうだろう。数あるフリーライターの中に。
それだけは何としても避けなければならない。去年から、安定して仕事の受注が入るようになってきた。俺の書いた記事がある程度の評価を得ている、ということだろう。
それにしても……。
バレンタインデーのお返し、か。心の中で呟く。自分には縁もゆかりもないことに関して、記事など書けるのだろうか。仕事を選り好みできるような立場ではない。少ない受注を断っていれば食っていけない。今回の仕事も深く考えずに飛びついたが、こうも難しいとは。
最初のコメントを投稿しよう!