第1章

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散々に喘がされて掠れた声が零れる。 「分かってて来てるんだろう」 まだ染まった目元で睨みつける晴明を、保憲が軽くかわす。 「急ぐ仕事だからと呼び出したのはあなたでしょう」 「分かってて来てるんだろう?」 にやりと笑った保憲が同じ言葉を繰り返す。耳朶に寄せようとした唇から晴明が顔を背けた。 「仕事はこれからするさ」 情事の色を早くも消した声に、単を羽織り直した晴明がすいと立ち上がる。 「帰るのか?」 計算尺と紙を手に取った保憲が、卓に向かいながら問うた。 「身体を清めてきます」 「襲われるなよ……その格好は目の毒だ」 横目で見た保憲が小さく笑う。 朱を散らした胸の前を掻きあわせて、きっと睨んだ晴明が乱暴に御簾を払って出ていった。 ……夜の陰陽寮になぞ、夜廻りですら来るものか。 陰陽寮のすぐ裏手に、儀式の前に身を清める為の小さな井戸がある。 晴明は羽織っていた単を落とすと冷たい水を被った。ぬめる雫を洗い流しても残る身体の倦怠感に、吐息をつく。 濡れた髪を後ろでひとつに括った。 見上げれば、天空には満月に向かおうとしている上弦の月。 肌の上に残る雫が月光を弾いて煌く。腕を上げると光の玉がすうと滑って肘から落ちた。 かさり、と。 井戸の影で何かの蠢く気配がする。 小さな赤い光が二つ、並んで瞬く。 ちい、と小さく虫のような声を上げたそれが、さっと晴明の足元に走り寄った。黒く蹲った鼠ほどの影が、踝に光る水滴にちらりと舌を伸ばす。 ……無傷(むしょう)か。 都のいたる所に居る雑妖……鬼と呼ぶにも足りない妖(あやか)しだ。 「―――天魔外道皆仏性」 晴明が小さく呪を唱えると、ち!と悲鳴じみた声を上げて影が消えた。 『きちんと修行もしていない身で、呪を使うでない!』 保憲の父、自分の師である賀茂忠行(かものただゆき)の声が脳裏に甦る。 「……使えるんだから仕方ないでしょう」 幼い自分を引き取って、我が子同然に育ててくれた恩人───彼の前では言えなかった言葉を口に出してみる。 そう……普通なら修行をしなくては分からない事、使えない術が晴明には難なく出来る事が多かった。 ほんの小さな頃から異界を見る事が出来ていた、自分。 だから、と晴明は思う。 忠行殿は自分を引き取ったのだ。 井戸の脇に立つ橘の陰に、ふうとまた何かの気配が漂う。濡れた肌に単を纏った晴明が眉を寄せた。 「……きりがないな」
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