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「あ、ちょっと待って下さい」
「イヤだ!」
「川上のこと、なんですけど」
金縛りにあったように、佐和の足が止まった。川上の名を出されては止まらざるをえない。
苦々しく、今通り越してきた桂を振り返る。
「……なんだよ?」
「俺、明日から三日間、仙台に出張なんです。理事長のお遣いで」
「へぇ~、出世街道まっしぐらの、エリート先生は大変なこって」
「まぁ、嬉しくはないですけどね。それでその間、川上の勉強を見られないんですよ」
桂はエリートビジネスマンが持つような、高級そうな皮の鞄からクリアファイルを取り出した。
「俺がいない間の分の宿題作ってあったんですけど、今日の昼休みは佐和先生の時間だったから、渡すタイミングがなかったんです。悪いんですけど、佐和先生から川上に渡してもらえません?」
言いながら桂は佐和の正面に立ち、分厚いクリアファイルを差し出した。佐和はそれを受け取り、中をパラパラと捲って確認し、嘆息した。
「三日分……作ったのか?」
「中間テストまで、日がないですからね。テスト一週間前になったらもう、昼休みの個人指導もできなくなりますし」
「ああ、そうか」
定期テストの一週間前になると、部活動など放課後の課外活動が一切禁止になり、かつ、休み時間に生徒が教師に個人的な質問をすることが禁止される。テスト問題漏洩を防止する目的らしい。
「そうですよ。だから、この数日間が個別指導の山場です。ここで追い込みかけないと、とても平均点なんて無理ですよ」
桂らしい皮肉めいた言い方だ。しかし――。
「やる気は十分だから、それぐらいできるでしょ。まったく、あの集中力とやる気を前から出していれば、こんなことにならなかったでしょうにね」
その口調はどこか温かく、シルバーフレームの奥の切れ長の目は、優しく細められていた。
「……それなら、深山先生が、自分で川上に渡してあげたらいいんじゃないか?」
桂が教師として、川上のことを心から応援しているのは佐和にも伝わった。
そうでなければ、出張前の忙しい時に、こんなにきちんと宿題を用意したりしない。そして、出来の悪い生徒を、こんな風に優しく語ったりしない。
だから佐和は、そう進言した。その方が川上も喜ぶと思ったのだ。
だが桂は、困ったように顔をしかめた。
佐和は不思議に思いながら続けた。
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