郭公の雛

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「後藤さん、お疲れ様です」 「あっ、お疲れ様」 加奈子は振り向かず声だけで応じた。 パソコンを終了させて眼鏡を外した途端、机の上でマナーモードにして置いてある携帯が、「ムゥゥウンムゥゥン」と、まるでおたふく風邪でうなされる子供の声の様な音を立てて鳴った。 「今日は何時のバス」 それは息子の和也からのメールだった。 「ん、あぁ、今日はパスタなんだ」 和也がバスの時間を訊いてくる時の夕食は必ず麺類。 そしてその殆どが、そう、まぁ約80%から90%がパスタであることが多い。 私なら夕食を作ってやる相手に帰宅時間まで御伺いを立ててやる様なそんな事はしない。 缶詰かレトルトのソースを温めて、ソースの支度が出来たらとっととパスタを茹でて、茹で終わったら笊に移して、サラダ油をまぶして冷蔵庫に入れて置く。 だけどあの子はそんな風にはしない。 いつも私の帰宅に合わせてギターを弾く手を止め、鍋にたっぷりと水を張り、バスの時刻表と相談しながらパスタをアルデンテに茹で、手作りのソースをかけ、出来立てで素晴らしい食感のパスタを私達の食卓に提供してくれる。 今日のパスタはなんだろう。冷蔵庫には、おじいちゃんの家庭菜園で採れた茄子と胡瓜とトマトが山の様に入っている。 「う~ん、やっぱりトマトの冷製パスタかな」 加奈子はロッカー室で手早く着替えを済ませると和也にメールを返した。 「20時15分に家に着くよ」 もうこの時間だと、イトーヨーカ堂の地下の食品売り場は閉まっている。 「う~んカラスミが無いのが残念」 カラスミとは鰡の子を燻製にした高級食材。 1パック350円で売っている鱈子程の量で4000円から5000円はする。 これを少量、ナイフで削りパスタにかける。 特にトマトの冷製パスタには絶妙のアクセントとなり、加奈子はこのカラスミの風味が大好物だった。 加奈子は使い古されたヴィトンのキーケースを手にとった。 照明を消し、事務所の鍵を閉める。 もう随分昔の事だ。この鍵を社長から預かった頃、加奈子は人生に於いて大きな選択を迫られていた。
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