プロローグ

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「おい、あんた大丈夫か」 「大変だ、医者に見せないと」  人だかりの中心でうずくまっているのは若いアジア人のようだった。身なりから観光客と思えた。  彼は右手を噛まれたらしい。少しずつ血が滴り落ちて、地面にできた色の濃い部分の面積を広げはじめているところを見ると、まだ噛まれてからさほど時間は経っていないようだ。 「俺は危ないからよせって言ったんだ!狂い犬だから気をつけろって!」  中年のやせ細った男は狼狽した様子で犬を棒っ切れで殴りつけてゲージに入れていた。どうやら彼の狂い犬に、このアジア人の青年はわざわざ近づいていったらしい。 「ノー・プロブレム。医者に連れて行くからどいてくれないか」  青年のそばにいたもう一人の、青白い顔をした細目の男性が青年の肩を抱え、ぐいっと持ち上げると青年はよろよろと立ち上がった。 「医者のところに行ったら、絶対に注射を打ってもらったほうがいい」  犬の持ち主が恐る恐る言った。自分の犬が青年を傷をつけたことで、何かしらの賠償を要求される事態を心配しているようにも見えたが、真剣な表情で医者へ行くことを勧めていた。 「ノー・プロブレム」  青年の肩を抱えた男性は、そんな犬の持ち主の心配を気にする素振りもなく、その青白い顔に人懐っこい作り笑顔を浮かべると、二人で人混みの中から抜けていった。  急に崩れだす人混み。興味の対象を失ったためか、ばらばらと人が散っていく。人の密度が平常に戻っていった。 「おっちゃん。さっきの人たち、最近よくこのあたりをうろついてたよね」  りんごをシャリっとかじりながら、屋根から降りてきた地元民の少年が犬の飼い主に話しかけた。 「あぁ、どっから聞きつけたか知らないが、病気の犬がいるだろう見せてくれって言ってきたんだ。危ないから近づくなって言ったんだがな。若い方のヤツ、あのヘビみたいな男に言われてわざと噛まれたように見えたけどな。ちゃんと医者行って注射打ってもらってりゃ良いけどな」 「まぁ、観光客ならその辺のことくらい知ってるんだろ?」  その二時間後、チャトラパティ・シヴァージー国際空港を出発した成田国際空港行きの飛行機の機内には、二人の日本人の姿があった。一人は右手に包帯をして。
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