ある酒場の片隅で

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 仄暗い灯りの中、男が一人、グラスを傾けていた。50前後に見える彼は無精ひげを生やし、身に付けたスーツもよれよれだ。腰のベルトの上には贅肉がもりあがり、普段の不摂生な生活が伺える。  バーテンダーにおかわりを注文したところで、不意に声をかけられた。 「ここ、よろしいですか?」  見ると老人が立っていた。深いしわが刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべている。仕立てのいいスーツに身を包んだ彼は、マフラーを解きながら男の隣の席を指し示していた。  店内を見渡す。ボックス席は客で埋まっているものの、カウンター席には彼一人。つまりここじゃなくとも他にいくらでも座るところはある。なのにわざわざ隣に来るというのはどういう了見だ。訝しく思うものの、別段断る理由もないため、不承不承頷いて見せた。 「では、失礼します」と恭しく頭を下げてから、老人は椅子に腰を落ち着けた。  バーテンダーが男の前にグラスを置いて、静かに去っていく。 「どこかで、お会いしましたか?」 「いいえ、初対面ですよ」  老人は微笑を浮かべると、 「少し、お話がしたかっただけなのです」  おそらく相手は孤独な年寄りなのだろう。さびしくて話し相手を探していただけだ。そうしたら、たまたま俺が目に付いたということだ。いいだろう。こっちにしたって独りぼっちの身だ。職を失い、妻にも逃げられ、無気力に生きているのだから、気分を紛らわすにはもってこいだ。  そんなことを考えながらグラスを手に取ると、老人はそれを咎めるように目で追った。 「お酒だけ、飲むのですか?なにか肴になるものも食べたほうがよろしいのでは?体によくないですよ」  その言葉に男は首を振って見せた。 「いいや、つまみなんていらないよ。俺にはこれがある」  彼はポケットからタバコの箱を取り出し、一本くわえた。火をつけると、思い切り吸い込み、ふぅと紫煙を吐き出した。 「タバコも、止めたほうがよろしいのでは?百害あって一利なしですよ」 「じゃあ酒は、一利あるってことだな?」 「適量ならば、そうですね。しかしお見受けしたところ、あなたのお酒は度が過ぎているように思えるのですが」 「初対面のあんたになにがわかる」
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