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男は一息でグラスの中身をあおった。これ見よがしに氷をカラカラ鳴らすと、バーテンダーが飛んでくる。
「同じもの」
オーダーしてからチラリと隣を見た。
「そう言えばあんた、注文がまだだな」
店員を呼ぼうと手を挙げかけたところで、
「いえ、結構です」
「なんだよ。こんなところに来たって言うのに、飲まないのか?」
男が小首を傾げると、老人は腕時計に視線を落とした。
「ええ。私はこの後、仕事がありますので」
「仕事?こんな時間から?」
「はい」
「どんな?」
「それは、人には話せない契約なのです」
なんだ。おもしろくない。さびしい年寄りではなかったのか。時間つぶしの相手をさせられているだけじゃないか。
ムッとした男は腹立ち紛れに届いたばかりのグラスを空にした。叩きつけるようにそれを置くと、よろける足で席を立った。
「帰る」
金を払い、ふらふらとドアへと向かう。
「またな」
振り向きもせずに手を振ると、老人の声が追いかけてきた。
「ああ、外は寒いですよ。もう少し暖かくするか、酔いが醒めるのを待ったほうがよろしいのでは」
「余計なお世話だ!」
捨て台詞を吐いて店を出た。
一歩二歩と進んだところで北風が首をなでた。
「寒っ」と思わず身をすくめた直後、男は胸を掻き毟るようにして倒れた。
それに気づいた通行人が駆け寄ってくる。救急車と誰かが叫んだ。
いつの間にか老人が男のそばに立っていた。彼はしゃがみこむと、男の胸に手を当てた。
「ほら、言わんこっちゃない。せっかく忠告して差し上げたのに」
その手に、ぼんやりと光るものが握られた。それを内ポケットに納めると、老人はその場を立ち去った。
しかし、彼の挙動は誰の目にも映っていなかった。
倒れたままの男をチラリと振り返ってから、老人は呟いた。
「まあ、ああいう人がいるからこそ、私の仕事もなくならないのですがね」
次の瞬間、彼の姿は霞のように掻き消えた。
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