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「遅くなってごめん」
開口一番、彼はそう言って申し訳なさそうに眉を下げた。
闇に溶け入る黒髪の奥で、宝石のごときコバルトブルーの瞳が揺れる。紺の軍服はところどころ赤い染みで汚れており、白磁の肌には無数のひっかき傷が見てとれた。
「……吸血鬼と、戦ったの?」
「うん」
「大丈夫だった? 怪我はない?」
フィリアは彼――名はルルウという――をベッドに座らせると、不安げな眼差しで幼馴染の顔を覗き込む。
ルルウはそんなフィリアを安心させるように、フッと口元を緩めて見せた。
「大丈夫だよ。研究班が対吸血鬼用に開発した新薬が、実戦で効力を発揮したんだ。今日一日で、基地から半径三キロ以内をやつらから取り戻した」
「凄い! じゃあ、私達が空を見れる日も遠くないのね!」
「そうだね。吸血鬼と戦う術を持たない一般人が外に出るのは、もう少し安全が確認されてからになると思うけど。でも、そう遠くない内にこの地下から出られるはずだよ」
喜びのあまり、フィリアはルルウに抱き着いた。彼の首に手を回し、そっと口づける。
物心ついた頃から既に、フィリアはこの地下室にいた。少なくとも彼女の覚えている限りでは、ここから出たことは一度もない。
というのも、女性や子供の血を好む吸血鬼から、身を守る必要があるからだ。
ある日突然訪れた、世界の終焉。強靭な肉体と冴えわたる知性を備えたその生物に対して、人間は無力だった。
世界中で起こった大量虐殺、文明破壊。辛うじて生き延びた数少ない人々は、絶望と失意の内に地下へと身を潜ませた。
しかし全てを諦めてしまったわけではない。日の当たらないそこで吸血鬼に対抗する武器を開発し、人類の再興を夢見て、現在も必死の抵抗を続けている。
そして今日、ようやくその成果が表れた。人々の絶えまぬ努力と忍耐が、暗々たる未来を切り開いたのだ。
ルルウとのキスに身を委ねながら、フィリアは閉じた瞼の裏に青空を思い浮かべる。
知識としてしか知らない空、雲や太陽。
いつかそれらを、直に見ることができたなら。
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