ある夏の日に

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改札の手前で、手厳しく母親に叱られる春樹を、兄の圭一が笑いながら待っていた。 普段はおとなしく、母親の機嫌を損ねることのない春樹の失態を、8歳年上の兄は、少し気の毒がり、少し楽しんでいた。 「バカだな春樹。母さん、暑いとイライラしちゃって、機嫌が悪くなるんだから。怒らせちゃダメだって」 近寄って耳打ちしてきた圭一の忠告に、春樹は必死で頷いた。 「うん、春樹、今度はちゃんとついて行くから」 キャリーバッグを引きずりながら改札を抜けていく母親を追って、圭一も春樹も同じように改札をくぐった。 屋外に近づくにつれ、蝉の声と熱気が強まった。 「あれ? 春樹、チョコ食ったのか?」 ふいに春樹の顔を覗き込んだ圭一が言った。 「口の横に、チョコ付いてるぞ」 春樹はハッとして、慌てて口を手でぬぐった。 「誰かにもらったのか? チョコ。 母さんにバレたらやばいぞー。あの人、そういうの大嫌いだから。マジで置いて帰られちゃうかもな」 圭一は横から肘でつんと、面白がって突いてくる。 どんどん距離が離れてしまう不機嫌な母親の背を追って必死に歩きながら、春樹は圭一を振り返り、そして懇願するように言った。 「ナイショね」 チョコのほろ苦さと共に、さっき触れた男の人の、溢れ出す優しさと寂しさが、ふわりと再び、春樹の中に香った。         -fin-
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