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その日は、小春日和のいい天気だった。
マンションの4階のベランダには、昨日の休日に正輝と2人で作ったテルテル坊主が、緩やかに揺れている。
「テルテル坊主、頑張ってくれたな」
山村がそう言うと、正輝は、「うん、がんばったね」と、心ここにあらずで、朝食のパンを頬張っていた。
平穏な一日の始まり。
不幸な事など、何も起こりはしない。そのはずだった。
午後6時頃、職場から一度電話を入れたときは、何も変わりは無かった。
正輝は遠足を満喫し、早くも父親の帰りを待っているのだと、妻は電話口で苦笑していた。
仕事を何とか切り上げ、帰り道のケーキ屋で、注文していたケーキを受け取る頃には、時刻は8時を少し回ってしまっていた。
大丈夫。今日くらいは、妻も正輝をベッドに放り込む事はしないだろう。
そんなことを思いながらようやく辿り着いたマンションの前は、人だかりで騒然としていた。
何かあったんですかと、不安に駆られながら野次馬の1人に尋ねると、ベランダから子供が落ちたらしいよと、淡々とその男は言った。
心臓がドンと音を立てて跳ね、血の気が引いた。
全身が痺れるような不安に我を忘れ、手に持ったカバンとケーキを投げ出して人混みに走った。
遠くから救急車のサイレンが聞こえ始め、そしてそれと共鳴するように、甲高い金属音が鼓膜を突き刺した。
その音が、妻の叫び声だと理解できたとき、同時に山村の正気はどこかに消し飛んだ。
残酷な事実への拒否反応が冷水の様に臓腑を満たし、血の味のする慟哭と共にその場に崩れ落ちた。
そこですべてが終わったのだと、山村は悟った。
―――ここから先は、絶望という奈落に住むのだ。
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