ある夏の日に

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正輝は山村の帰りを待ちわびて、4階のベランダから通りを見ようとしたらしい。 小さな正輝に手すりをよじ登れるわけもなく、母親はいつも好きにさせていたのだが、この日は違った。 前々日、2人で作ったテルテル坊主を正輝自ら吊せるように、山村は踏み台を用意したのだ。 折り畳み式の踏み台の使い方を教えてやると、正輝は嬉しそうにそれに乗り、テルテル坊主を物干し竿に括り付けた。 自分で吊したのだと、あの日正輝はとても嬉しそうだった。 その踏み台は、片付けられるのを忘れられ、その日もベランダの隅に小さく畳まれて、置いてあったのだ。 踏み台に乗り、4階のベランダの柵をよじ登った正輝が、最後に見たものは何だったろう。 一瞬でもいい。 不注意な父親を恨んでくれたら良かったのにと思った。 妻は誰かを恨むことでギリギリ精神を保って居られたようで、実家に引きこもり、やがて離婚届けを送ってきた。 躊躇わずにサインした。 もう何かを思案する気力も無くなっていた。 ふいに、山村の手を握っていた小さな手に、グッと力が入るのを感じた。 男の子が立ち止まったのだ。 山村はハッと我に返り、差し込む日差しで金色に艶めく男の子の頭を見下ろした。 春樹というその子は、ホーム中程にある売店の、お菓子コーナーをじっと見つめていた。 ひんやりと冷気の膜の降りたショーケースに、正輝の好きだったチョコレートバーが並んでいる。 山村の胸が疼いた。 それに呼応するように、その少年の手が、きゅっと強く、山村の手を握り返してきた。
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