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阿久津先生の怪我は、瞼に傷跡が残った程度で軽く済んだ。それを聞いて子供だった私は単純に安堵した。
私自身はと言えば、鎖骨から右の脇の下まで至る傷は結構深くて、その醜い跡が思春期を迎えた心に暗い影を落とした。
まさかそのせいでますます阿久津先生が描けなくなっていたなんて、思いもよらなかった。
五年間。
あの桜の木から落ちた日から五年もの間、私は何も知らずにスランプで苦しむ阿久津先生のそばでのうのうと暮らしていたのだ。
そして、その事実を知った日から更に五年。
私はどうやったら罪を償えるかを模索してきた。どうやったら先生に立ち直ってもらえるか。
初めは、先生から離れることがいいと思っていた。
きっと先生にとって私やあの桜の木は忘れた方がいい存在なのだ。だからこそ朱美さんは環境を変えた方が良いと言い出したに違いない。
でも、なぜか先生は私の家から出て行くのを止めた。
そして、環境を変える代わりに、画風を百八十度変えてしまった。
「阿久津は淫らな裸婦画ばかり描いている。変な雑誌にそういうイラストを売って食い繋いでいる」
父も心配して、どうしたものかと悩んでいるようだった。
おそらく自分の娘がしでかしたことで、前途ある若者の未来が捻じ曲がってしまったことに責任を感じていたのだろう。
先生が罪の意識に押しつぶされることはない。あの時、先生が抱きとめてくれなかったら、私は死んでいたかもしれないんだから。
両親がフランスに行って二人の生活になってからは、先生は猥雑なイラストは描かなくなったが、その後アトリエに籠って先生が描き上げたのは、あの桜の木だった。
先生の心は繊細だから、自分を責め続けている。
だから、私に出来ることは人生を楽しんでいる姿を見せることだと思った。
サークルのコンパに、友達との旅行。
私は阿久津先生に、自分が青春を謳歌している女子大生だということをこれでもかと見せつけた。
彼氏が出来たと嘘をついたら、先生は何も言わずに大きなため息をついた。
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