無垢なるもの

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*** 「私は絵のことはよくわからないけど、先生の絵がまた認められるようになるなら、何だってします」 「俺が描けなくなったのは美桜のせいじゃない。俺の心の問題だ」 「私の怪我だって私の問題です。先生が責任を感じることはありません。こんな傷跡があっても私がいいと言ってくれる人はいますし」 いもしない彼氏のことを力説しながら、先生を見つめた。 たとえそんな人が現れたとしても、私の心は先生のものだ。 もうずっと前から。きっと永遠に。 「……だったら、もっと自分を大事にしろ。おまえがあんな男に触られていると知ったら、彼氏だって怒るに決まっている」 「……はい」 わかっている。自分が間違ったやり方をしていたことは。 俗物たちに絵が売れても先生の暮らしが楽になるだけで、先生の絵が認められたことにはならない。 間違いに気づいていたが、他にどうすればいいかわからなかったのだ。 「今度のコンテストに出品する作品だが、あの桜の木とおまえを描こうと思っている。それで終わりにするつもりだ」 「終わりって何ですか!? 画家を辞めるつもりですか?」 思わず詰め寄った私に仰け反りながらも、先生はゆっくりと首を横に振った。 「そうじゃない。俺から絵を取ったら何も残らないだろう? 俺が終わりにするのは……」 先生が言い淀んで窓の外に目を逸らせた。 その視線を追うと、あの桜の木が目に入った。 私の身体に傷を残し、先生の心を傷つけたあの時の情景が目に浮かぶ。 三月初めのまだ寒い日。病に臥せっていた母に見せたくて、桜の木によじ登った私。 先生はどうして木の上の私に気付いたのか。そっと近づいてきた。 一陣の強い風に目を瞑った私はバランスを崩して、細い枝にしがみついた。 先生の運命を狂わせることになるとも知らないで。 「俺が終わりにするのは、おまえへの妄執だ」 苦し気に言葉を吐き出した先生に、私は首を傾げた。 「”妄執”ってどういうことですか?」 「俺はずっとおまえに無垢なるものを求めていた。それがあの時、桜の木から落ちたおまえを抱きとめて気づいたんだ。おまえもいつか誰かに穢されてしまうって。抱きしめた柔らかい感触も、破れた下着の隙間から見えた胸も、すでに”女”のものだったから」
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