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そうだった。阿久津先生はデッサンのために裸婦を描くことはあっても、いつもは風景や静物を描いていた。それは宗教画のように神々しくて、清廉な美しさに満ちていた。
『大人にならなくていいい』と言った阿久津先生の顔を思い出す。たぶん彼は本気でそう思っていたのだ。そんなことは無理だとわかっていても。
「もちろん、あの時は美桜が血だらけで、俺も動転していたから、それどころじゃなかった。何かモヤッとして、そんな自分の気持ちに気づいたのは、美桜が退院して来た時だった。あの時、急におまえが女に見えたんだ。当たり前のことだ、仕方ないことだって頭ではわかっているのに、おまえの時間だけ止めたいと何度も思った。それほど、おまえは俺の中では無垢な存在だったんだ」
そんなのは完全に阿久津先生の妄想だ。
十歳にもなれば、誰だって純粋ではいられなくなっている。世の中の不条理なことも目にするし、人の心の醜さだって学校生活の中で嫌というほど思い知らされる。
アトリエには父の弟子やモデルなど、大勢の大人たちが出入りしていた。そんな中で育った私は他の子どもよりも静かで大人びていたと思う。でも、阿久津先生には十分に子どもらしく無邪気に見えたのだろう。
「おまえを助けきれなくて酷い傷を負わせてしまった。それは申し訳なく思っているけど、その負い目から俺がスランプに陥ったというのはみんなの誤解だ。逆に俺は良かったとさえ思っていたんだから」
懺悔するように項垂れた阿久津先生がやけに小さく見えた。
「良かったって、どういう意味ですか?」
「傷跡を気にする美桜は一生、男を知らないままかもしれない。ずっと誰にも穢されないでいられるかもしれない。そんなことを期待した俺は、酷い奴だ。ごめん」
阿久津先生の言った”妄執”の意味が、やっとわかったような気がした。
私を”無垢なるもの”の象徴のように偶像視して、そのイメージを壊されることを嫌った。
でも、どんどん私は成長し大人になっていく。
阿久津先生の描きたかった無垢な世界が目の前で崩壊していく中で、彼が以前のような清廉な絵を描けなくなっていったのは当然だったのかもしれない。
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