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阿久津先生が完成させた絵には、私の身体は描かれていなかった。
そこには今を盛りと咲き誇る満開の花を付けた、あの桜の木だけがあった。
「そう来たか」
山岸社長も一目見ると、思わず唸った。
「タイトルは?」
「『魂の呼応』。俺が美桜を開花させ、求め合い、悦びの声を上げる魂をこの絵に吹き込んだ」
「あー、そういう意味深な解説はいらないから。でも、これなら入賞するんじゃない?」
「俺もそう思う」
久しぶりに見た、自信に満ち溢れた先生の顔は眩しいぐらいに輝いていて、私も誇らしい気分になった。
無事、出品を済ませて帰宅したら、先生に手を引かれてアトリエに連れて行かれた。
先生が大きな窓を開け放つと、傾きかけた日差しの中で花吹雪を纏った桜の木が目に飛び込んできた。
あの時、私の体重を支え切れなかった木も、この十年でだいぶ太く大きくなった。
こんな穏やかな気持ちでこの木と向き合える日が来ようとは、夢にも思わなかった。
思わず桜の木に手を合わせたいような、感謝の気持ちが湧いてくる。
それは阿久津先生と思いを確かめ合うことが出来たから。
「さっき、先生に許可をもらった」
「え?」
同じように桜の木を見つめていた先生の言葉の意味がよくわからなくて、首を傾げた。
阿久津先生が”先生”と呼ぶ人は一人しかいない。師匠である私の父だ。
「コンテストに出品するのに、父の許可をもらったんですか?」
今までそんなことはしていなかったはずだ。いくら師匠とは言え、フランスにいる父にいちいち許可を取る必要などない。
「出品に関しては報告したよ。今度こそ再起を果たしてみせると。それで先生も許してくれた。俺が美桜にプロポーズすることを」
ハッと息を飲んで、震える両手で口を押えた。
「あの事故の前から、ずっと美桜が好きだった。この桜の木に誓う。必ず美桜を幸せにすると。だから……俺と一緒に生きてくれ」
「はい。……はい!」
涙を零しながら何度も頷く私を、先生は愛おし気に見つめて微笑んだ。
アトリエの床に伸びた二つの影が重なる。その誓いを祝福するかのように真っ白い花びらが一つ、風に舞った。
END
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